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東京地方裁判所 昭和35年(ワ)7967号 判決 1964年6月19日

判   決

当事者

別紙当事者目録のとおり

訴訟代理人

別紙訴訟代理人目録のとおり

主文

1、被告東京都は、原告名和利也、同野村昭夫、同山辺健太郎、同湯川和夫に対し各金二〇万円、同福井正雄、同尾崎庄太郎、同大須賀きくに対し各金一五万円、同清水徹、同石崎可秀、同清水義汎、同幼方直吉に対し各金一〇万円、同新井浩、同今西章、同渡辺宏一、同森章、同山崎昂一、同浜本武雄、同凉野元に対し各金七万円、同山口省太郎、同高橋信一郎、同野原四郎に対し金五万円、同山口啓二、同早川正賢に対し各金三万円、同池端功に対し金二万円および以上各全員に対する昭和三五年六月一七日から各完済まで年五分の割合による金員をそれぞれ支払え。

2、原告等の被告東京都に対するその余の請求ならびに被告国に対する各請求を棄却する。

3、訴訟費用は、原告等と被告国との間では全部原告等の連帯負担とし、原告等と被告東京都との間では原告等に生じた費用の二分の一を被告東京都の負担とし、その余は各自の負担とする。

4、補助参加によつて生じた訴訟費用は、その二分の一を原告等の連帯負担とし、その余の補助参加人の負担とする。

5、1項は仮に執行することができる。

(目次省略)

事実

第一部  原告等の申立および主張

請求の趣旨

一、被告等は各自原告石崎可秀、同森章、同野原四郎に対し各金二〇万円、原告山口啓二、同山口省太郎、同池端功に対し各金一〇万円、その余の原告等に対し、各金三〇万円およびそれぞれに対する昭和三五年六月十七日から各完済まで年五分の割合による金員を支払え。

二、訴訟費用は被告等の負担とする。

との判決ならびに仮執行の宣言を求める。

(以下省略)

理由

第一、書証の成立に関する認定(省略)

第二、事実の認定と評価

一、事件発生直前までの原告等の行動

(一)「大、研、研」の組織と活動

1、昭和三五年五月から六月にかけて内閣総理大臣岸信介を首班とする時の政府がアメリカ合衆国との間でこれまで存在した日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(安保条約と略称する)を改定する目的で新に「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」締結を図つたこと、これに対する承認の可否をめぐつて、与党の自由民主党と野党との間に激しい対立を生じ、国民の中にも安保条約の改定に反対する声があり、日米安全保障条約改定阻止国民会議(いわゆる安保改定阻止国民会議)と呼ばれる組織が結成され、国会請願そのほか様々な方法で、大規標な反対運動が展開されたことは公知の事実である。

而して(証拠―省略)を総合すれば以下2ないし7の事実を認めることができ、これを覆すだけの信用性のある証拠はない。

2、五月十九日衆議院における安保条約の承認をめぐる採決をもつて与党の一方的な強行採決であるとする者の間には同日を契機として一段と反対運動の機運が高まり、いくつかの大学、研究所の教職員の中に六月四日、同月一一日といずれも安保定阻止国民会議が計画した安保条約締結反対の国会請願行動に大学研究所の集図として積極的に参加する者を生じたが六月一一日の国会請願行動からは、これに各種研究団体に所属する者をも加えて、「大学、研究所、研究団体集会」という呼称の下に東京および近県にある大学・研究所・研究団体等の教職員、大学院学生ならびに研究者等で志を同じくする者が団体行動をとることになり、各大学、研究所、研究団体から担当責任者を選出して実行委員会を発足させ、ここに略して、「大・研・研」と称される団体が成立したこと、翌十二日頃この実行委員会において「大・研・研」は安保改定阻止国民会議の計画する六月一五日の第一八次統一行動に参加する方針を決定した。

3、「大・研・研」は六月一五日午後五時頃、日比谷公会堂前に一旦集結し議長団に明治大学教授の篠崎武、東京大学助教授の五十嵐顕ほか一名を指揮班に畠山英高総指揮ほか九名をそれぞれ選出して、集会及び示威行進のための態勢を整えたのち午後五時半同公園野外音楽堂に移り「大・研・研」として六月一三日夜警察が東京教育大学および法政大学に対して行つた捜索、押収を違法として抗議する旨の決議文を採決し、警視庁に抗議するため代表団として一〇名を選出した。

「大・研・研」は右抗議集会を了えたのち午後六時三〇分頃から安保改訂阻止国民会議の指示に従い警視庁からチャペルセンター前を通り国会正門前に至り、参議院通用門前を経て衆議員議員面会所前からアメリカ大使館へ向い新橋で解散する予定で示威行進を開始した。この時の「大・研・研」は東京大学、東京教育大学、東京工業大学、一橋大学、東京農工大学、千葉大学、都立大学、法政大学、早稲田大学、慶応大学、中央大学、立教大学、明治大学、順天堂大学、専修大学、学習院大学、およびこれらの附属研究所の教職員、ならびに大学院学生、労働科学研究所、中国研究所、世界経済研究所、資源科学研究所、日本農業研究所といつた民間研究所もしくは研究団体の研究員、職員、東京都私学教職員組合連合傘下の森村学園、京華学園和光学園など約一〇校の教職員その他の学者研究者が参加し、団体数にして三〇団体、総人員にして三〇〇〇名から三五〇〇名前後と見積られていた。

4、「大・研・研」は警視庁前に至り右3の抗議集会での趣旨に基づき警視総監に対する抗議を行うため前示の代表団を派遣し面会を申入れたが、容易にその交渉が進展しないので既定の方針に従い国会への示威行進を再開し、チャペルセンター前、国会正門前、参議院第二通用門前を経て六月一五日午後八時頃衆議院第一議院会館前に到着した。しかし「大・研・研」がこゝに到着するまでの間に、国会正門前や南通用門附近で学生の集団と警察官の部隊との間に衝突があり多数の学生が負傷し死者も出たらしいこと、右翼の一団に新劇人の集団が襲撃されたこと、について虚実さまざまな情報が入りそれらしき学生の負傷した姿も散見したので衆議院第一議員会館前に到着して間もなく、指揮班から「収集した情報によれば今の事態では危険が予想されるので予定のコースを変更し再び警視庁へ向つて抗議のため行進し、南通用門附近における警察官の学生に対する弾圧について警視総監に抗議したうえで新橋方面に向つて流れ解散する」案が「大・研・研」の集会に提案された。しかし指揮班のこの提案に対しては、教職関係者が大部分を占める「大・研・研」としてこのまゝ学生を見殺しにすることはできないとの強い反対があり、討論の末「大・研・研」としては実情を確め、一つには負傷した学生の救護活動に従事すると同時にこのような警察官の行動に対し抗議の意思を表明すること一つには、事態の推移を見定めたいこと、また出来るならば今後の学生と警察官との衝突を防ぎ、事態の収拾を図るように努力したいとの意見が圧倒的多数を占め指揮班の提案は却けられ「大・研・研」は当初の目的をここに至つて変更し、そのため「大研・研」全員は南通用門に向い進み得るところまで進むことになつた。「大・研・研」はこの方針に従い同日午後九時頃国会南通用門の約五〇メートル手前あたりから、衆議院通用門にかけての幅約二二ないし二三メートルの路上(歩道部分を含む)に進み、そこで宣伝カーを先頭に(すなわち衆議院車庫側)から私立大学関係、私教連と略称する東京都私学教職員組合連合、「ダコセ」とも略称される東京地区大学教職員組合連合の三つの系統に大別されて一八列程度の縦隊を組みこれらの後方に関係大学の大学院学生、民間研究所関係が並びそのままの隊形で衆議院車庫寄りの道路上に待機することになつた。(その大体の位置関係は原告等主張図のAないしFのとおりである。)

5、「大・研・研」が衆議院車庫前路上に移つて程なく警視庁へ出向いていた抗議団も復帰し、「大・研・研」として今後の方針を立てるため、国会内に代表団を派遣し事態の真相を究明することおよび負傷者の救護活動を促進することを決定し、「大・研・研」に参加した主たる団体の中から一名宛計約三〇名の院内交渉団を選出し、指揮班から原告山口啓二ほか一名がこれに同行して衆議院議員面会所で主として社会党議員から学生と警官隊との衝突に関する情報を収集し現在学生が国会構内で抗議集会を開いていること、警察側でも当面は対峙の姿勢で今直ちにこれら学生に対し実力を行使することは避けているが、事態は楽観を許さないことを知り、議員面会室で対策を協議しているうちに午後一〇時三〇分頃、南通用門内で警官と学生との間に衝突が起き、やがて学生は南通用門から国会構外へ排除されたが、その頃には南通用門と正門との中間附近で火の手が上るのが望見され、車輛が炎上しているとの情報も入つた。そこで「大・研・研」の院内交渉団は危機が切迫したと感じ、三度目の衝突を防止するにはなによりもまず学生側を説得しなければならないとして、いわゆる、院内交渉団から一〇名余の人員を募り原告清水義汎と原告山口啓二とがこれに同行し正門前に集つていた学生の集団の代表者に合つて早急に解散するよう説得しようとしたが、この学生の集団を統括できるだけの代表者を見つけ出すことさえできず、その試みも挫折し空しく引き返さざるを得なかつた。一方院内交渉団も議員面会室に釘付けにされたまま、自由に国会内で活動することもできず、やむなく社会党、共産党の国会議員を通じて警察側の警備責任者と折衝することにしたがそれとて明確な結論を得ることも出来ず、結局は積極的な収拾策を打出す機会をつかむことはできなかつた。この間に衆議院車庫前路上に残つた「大・研・研」では参加大学の医学部および附属病院の関係者が中心になつて救護班を組織し、負傷者の治療に当ることになつたが警察の手で議員会館地下室に収容されているという学生側の負傷者の救護に従事することは警察官に阻止されてできなかつた。

6、(1) 一方衆議院車庫前路上の「大・研・研」は院内交渉からの経過報告を待ちながら待機していたが、当夜は時折強い雨が降り「大・研・研」としてとくに夕食の準備もしていなかつたこともあつて疲労している者もあり、また一方明日以降の活動の都合も考慮し午後一一時頃になつて畠山英高総指揮から解散の提案があり、これについて討議したところ、参加者の中には解散に反対する者があり、またこれまでの「大・研・研」の実行委員会でも、六月一五日の統一行動参加に際しては情勢によつては徹夜の座り込みもあり得るとの意見が打ち出されていたこともあつて、結局「大・研・研」としてはこのままの態勢で引き続き活動を続けるが、明一六日以後も各職場で抗議の行動を起しこれを組織するため多数の活動家が帰宅しなければならないとの意見が支持された。その結果畠山総指揮の勧めにより相当数の集会者は帰宅し、午後一一時三〇分頃までに「大・研・研」として衆議院車庫前路上に残つた人員は総指揮の方の目算では四〇〇名前後とみられる程に減少した。

(2) 「大・研・研」の院内交渉団は院内での活動も思うにまかせず、また交渉をしようにも警備担当の責任ある地位に在る者に直接会うこともできないので六月一六日午前零時三〇分頃かけつけて来た茅東京大学総長、大浜早稲田大学総長にそれまでの経過を説明し事態の収拾について助力を要請した結果、両総長が警視総監に会見を申し入れることになつた。

そこで院内交渉団は一六日午前一時頃「六月一五日に国会警備の警察官が学生に加えた行為は残虐行為であり教育者たるわれわれの許すことができないところである」との趣旨の「大・研・研」の声明文案を起草し「大・研・研」の集団にこれを諮るべく原告山口啓二が原稿を持つて衆議院車庫前路上の「大・研・研」集団の許へ戻ることになつた。また院内交渉団は警察側と学生の集団との間には一触即発の危機が続き警官隊も冷静さを失つている気配が感じられることおよびすでに深更になり「大・研・研」の集団も夜来の雨でかなり疲労していることから、このまま「大・研・研」を衆議院車庫前の路上にとどめておくときは、どのような危険に見舞われるかもしれないと考え社会党議員の斡旋で「大・研・研」を衆議員面会所の廊下に待機させることになり原告清水義汎ほかが原告山口啓二と前後して「大・研・研」を誘導する目的で衆議院車庫前へ戻ることになつた。

(3) 一六日午前一時頃「大・研・研」は依然として衆議院車庫前で待機していたが人数はさらに減少しておおよそ三〇〇名前後と算えられ、おおむね所属団体別に三々五々群を作り、はじめに「大・研・研」が衆議院車庫前路上に到着した時からみれば隊形は非常に縮少し、いくらか崩れてもいた。

そしてなかにはプラカード類を焚いて濡れた着衣を乾かしているグループもあつたこのような状態のときに、原告山口啓二は院内で起草した声明文案を「大・研・研」の集会に諮るため、また原告清水義汎は「大・研・研」を衆議院議員面会所に誘導するため、それぞれ一六日午前一時二〇分頃衆議院車庫前路上にいた「大・研・研」の集団の先頭附近に戻つてきた。

(4) 原告山口啓二が衆議院車庫の車庫連絡事務所前附近で携行した声明文案を披露する旨を「大・研・研」の集団に告げ「大・研・研」の前部に居た者が同原告を取り囲むように移動をはじめ同原告が声明文案を読み上げはじめた時、突然「大・研・研」の左横すなわち国会寄りの路上をまず数十名の学生風の一団が正門ないし南通用門方向から首相官邸方向へ追われるように駈け抜け、続いて「大・研・研」の中で右翼が襲撃して来るという声が起り、やがて「大・研・研」の先頭附近に居た一部の者は、前方に鉄かぶとの波が揺れ動くのを認めこれによつて迫つて来る者は警察官の部隊であることを察知した。この時には「大・研・研」の残存者は原告山口啓二の周囲を離れ各自の隊列の位置に復帰し、迫つてくる事態に対処するため一部ではスクラムを組みかけていた。

このように認めることができる。そこで原告等の「大・研・研」に参加した経緯について次に判断する。

(二)  原告等の職業および「大・研・研」への参加

(証拠―省略)を総合すれば1ないし7の事実を認めることができ、これを覆すだけの信用性のある証拠はない。

1、原告等のうち原告森章は明治大学講師で六月一五日午後八時前後すなわち「大・研・研」が衆議院第一議員会館前に到着した頃にその中の明治大学教職員組合のグループに加わつたが当夜の服装は背広にネクタイをしめ「明治大学教職員組合」と記した腕章を着用していた。一六日午前一時過ぎ頃同原告は「大研・研」集団の前部にあつた明治大学関係のグループの先頭附近に居た。

2、原告浜本武雄は明治大学講師で六月一五日午後九時頃すなわち「大・研・研」が衆議院車庫前に移つた頃その中の明治大学教職員のグループに参加したが当夜の服装は背広にネクタイをしめて革かばんを携行していた。一六日午前一時過ぎ頃同原告は「大・研・研」集団の中央先頭にあつた明治大学関係のグループの先頭に居た。

3、原告山口啓二は東京大学史料編さん所助手で「大・研・研」指揮班の一員として、背広にネクタイをしめレインコート、ソフト帽を着用し「大学、研究所、研究団体指揮班」と書いたたすきをかけ、すでに認定したように、院内交渉団と共に行動し、一六日午前一時過ぎ頃前述の声明文案を「大・研・研」の集会者に諮るべく院内から衆議院車庫前路上の「大・研・研」集団の最前列国会寄りのあたりへ戻つた。

4、原告清水義汎は明治大学助教授でハンチングに背広、レインコートという服装で「東京私教連」と染め抜いた腕章をつけ「大・研・研」の指揮班の一員として行動したが、一六日午前一時過ぎ頃「大・研・研」の集団を前述のとおり衆議院議員面会所の廊下に誘導する任務を滞びて議員面会所から衆議員車庫前路上の「大・研・研」集団の最前部へ戻つた。

5、原告早川正賢は東京教育大学理学部助手で半袖開衿シヤツを着用し、「大・研・研」の一員として行動していたが、一六日午前一時少し前に大学院学生二名と共に国会正門前あたりまで情況を見に出かけ正門前に並べてあつた警察の車輛の最後の一台(同原告はそう信じた)が放火により炎上するのを目撃した。

6、原告清水徹は東京大学文学部仏文科助手で国学院大学講師をも勤め、六月一五日は東京大学の大学院学生のグループと共に「大・研・研」の一員として夕刻から行動していたが翌日の授業の準備をするため午後七時頃帰宅した。しかし深更のラジオ報道で南通用門附近で学生と警察隊との間に衝突があり負傷者が出たことを聞き、自分が関係する東京大学の仏文専攻の大学院学生の安否を気遣いまた自分自身でも事態の成り行きを見たく思い、一つには同原告の妻がラジオ東京の報道部員として現場の情況を自分で確認しておくことを望んだことも手伝つて、一六日午前一時少し前にハンチングにスポーツシヤツ、レインコートという服装で妻と共に地下鉄第一入口まで来たところ衆議院車庫前路上に「大・研・研」の集団を認め、その中に気遣つていた大学院学生が無事でいるのを確認できた。そこで同原告は妻と共に国会正門前の状況を見るため午前一時頃総理府恩給局前の道路を国会にそつて正門方向へ歩いて行つた。

7、その他の原告等は「大・研・研」が日比谷公園野外音楽堂を出発する頃までには「大・研・研」の集団に参加していた。

その職業、地位および前記(一)7の時点におけるおおよその位置は次のとおりである。

(イ) 原告福井正雄は東京大学理学部助手で当日は背広にネクタイ、レインコートを着用して、一六日午前一時過ぎ頃は「大・研・研」集団の右先頭部にあつた東京大学関係のグループの中に居た。

同新井浩は東京大学伝染病研究所助手で、当日は鳥打帽をかぶり背広にネクタイをしめ、革かばんを持ち、「東大職組」と書いた腕章をつけて「大・研・研」集団の右先頭附近に位置した東京大学関係のグループの先頭あたりに居た。原告山口省太郎は東京大学原子核研究所助教授で当日はジヤンパーを着、シヨルダーバツクを提げ「東大原子核研究所」とある腕章をつけて「大・研・研」集団の中央先頭部にあつた東京大学関係のグループの前から二列目附近に居た。原告石崎可秀は東京大学原子核研究所助教授で当日は背広にネクタイをしめ、「大学、研究所、研究団体指揮班」と書いたたすきをかけ東京地区大学教職員組合連合の腕章をつけ「大・研・研」指揮班の一員として「大・研・研」集団の東京大学関係グループの先頭附近に居た。原告今西章は東京大学原子核研究所技術員で当日はワイシヤツの上にレインコートを着、「東京大学原子核研究所」と書いた腕章をつけて「大・研・研」集団の東京大学関係のグループの先頭附近に居た。

(ロ) 原告渡辺宏一は東京農工大事務職員でありまた同大学の組合書記長でもあつたので六月一五日夕刻から「大・研・研」の一員として行動し、院内交渉団にも加わつたが、一六日午前一時頃は「・大研・研」の待機していた場所から数十メートル先の地下鉄第一入口で雨宿りをしていたが、午前一時過ぎ頃、正門方向から同原告の方へやつてくる警察官の部隊を認めたので急ぎ衆議院車庫前の「大・研・研」の集団に復帰した。

(ハ) 原告湯川和夫は社会思想史を専攻する法政大学教授で、当日は同大学教授団の一員として背広にピケ帽という服装で「大・研・研」集団の左先頭部にあつた法政大学関係のグループの先頭附近に居た。

原告高橋信一郎は法政大学付属第二高等学校教員で法政大学教職員組合の役員として当日はハンチングに背広、レインダスーコートを着、「法大教職組」と書いた腕章をつけ、電気メガホンを携行して、原告名和利也も同じく法政二高教員で法政大学教職員組合第二高校支部役員として登山帽に背広という服装でいずれも「大・研・研」集団の法政大学関係グループの中に居た。

(ニ) 原告山崎昂一は、英語および英文学を専攻する明治大学助教授で背広にネクタイ、レインコートを着「明治大学教職員組合」と白く染め抜いた腕章をつけて「大・研・研」集団の中央先頭部にあつた明治大学関係のグループの最前部附近に居た。

原告池端功は和光学園教論で、東京都私立学校教職員組合、いわゆる私教連の副委員長として背広姿で明治大学関係グループの先頭あたりに居た。

(ホ) 原告幼方直吉は中国の法律、歴史の研究者で社団法人中国研究所理事として十六日午前一時頃は「大・研・研」の集団の右後半部にあつた民間研究所グループの左先頭附近すなわち「大・研・研」集団の中ほどとみられるところに居た。原告野原四郎も中国研究所の研究員で都立大学講師の職にあり、同じく民研グループに属し「大・研・研」集団の後半部とみられるあたりに居た。原告尾崎庄太郎も、中国研究所研究員として紺の上着にネクタイはしめないで手にかばんを持ち「大・研・研」集団の中ほどに居た。原告凉野元は資源科学研究所研究員で「大学・研・集会」と書いた腕章をつけ、民間研究所グループの左先頭部すなわち「大・研・研」集団の中ほど附近に居た。原告大須賀きくは、労働科学研究所研究員として海上労働について研究する者であるが当日は、スカートにレインコートを着レインシユーズを履き「労研」と書いた腕章をつけて「大・研・研」集団の中ほどすなわち民間研究所グループの左先頭部附近に居た。原告野村昭夫は世界経済研究所研究員としてスポーツシヤツに背広という服装で民間研究所グループに属し「大・研・研」集団の後半部の先頭国会寄りのあたりに居た。原告山辺健太郎は歴史学研究者で歴史学研究会の会員として「大・研・研」に参加したが当日はワイシヤツ姿で手に風呂敷包を持ち「大・研・研」の後半部に居た。

以上の通りの事実が認められ(証拠―省略)も7(イ)の山口省太郎に関する認定を左右するに至らない。

そこで次に被告等の警備実施状況について判断する。

二、六月一五日から一六日未明にかけての警備活動、

(一)  警視庁の警備方針

(証拠―省略)を総合すれば以下1ないし3の事実を認めることができ、これに反する証拠はない。

1 昭和三五年六月に入つて安保条約の改定に反対する機運が高まり時の岸内閣を批判する動きと相まつて国会周辺には安保改定阻止国民会議の方針に従つた、請願行動、安保条約改定反対の抗議などで集団示威行進が連日のように続き、六月一〇日には羽田空港でいわゆるハガチー事件が発生するに至つた。

とくに六月一五日は安保改定阻止国民会議が企てた第一八次統一行動の日に当り警視庁が事前に入手した情報を総合すると当日は推定一〇万人にのぼる示威運動が国会周辺から首相官邸、私邸およびアメリカ大使館周辺にかけて実行される見込であり、官公庁、私鉄関係のストライキも予定されていたがこれの影響は大したことはなく、むしろ警備上最大の問題は全学連主流派と呼ばれる学生の集団がいかなる行動に出るかにあつた。そこで衆議院議長清瀬一郎、参議院議長松野鶴平はそれぞれ六月一四日内閣総理大臣に宛て六月一五日の情勢に対処するため警察官二、〇〇〇名の増員派遣を事前に要求し、当日になつてさらに一、三〇〇名の増員派遣を要求し、警視総監小倉謙はいずれも内閣総理大臣を経由してこの要請に接した。

2 このような予想される事態に対処するため、警視庁では予め六月一四日中野の警察大学講堂に警備、公安、両部長、両部の各課長、係長交通部の係長といつた役職にある者、関係警察署長、各機動隊長第一ないし第七の各方面本部長および厚生課長等を集めて警備会議を開き六月一五日から一六日早朝にかけての警備対策を樹て次のとおり警備指揮の概要を定めた。

(1) 警備指揮機構

(イ) 警視庁内に警備総本部を設け、警備総本部長には当時警視庁警備部長の職にあつた玉村四一警視長が就き、全部隊を一元的に掌握する。

(ロ) 国会周辺とアメリカ大使館の警備については方面警備本部を設けその長には第一方面本部長(事務取扱)藤沢三郎警視長が就いて現場の総指揮をとる。

第一方面警備本部長すなわち藤沢警視長は幕僚のうち第二方面本部長に首相官邸、第四方面本部長にアメリカ大使館第五方面本部長に国会構内の大半、第七方面本部長に国会裏側をそれぞれ担当地区に指定して、所属部隊の指揮に当らせる。

(ハ) 岸総理大臣の私邸の警備については方面警備本部を設け、その長には第三方面本部長がつき現場の総指揮をとる。

(2) 警備の要領

イ、国会当局の方針に基づき、請願行動が秩序を保持しつつ平穏に行われるかぎり、努めて主催者の自主統制に委ね、交通整理を主とする警備にとどめる。

ロ、国会議事堂、総理官邸、同私邸およびアメリカ大使館を警備上の要点としこれらの施設に不法侵入した場合は速に排除しまたは逮捕する等の措置を講じる。

ハ、なお国会警備については警察部隊がデモ隊と接触することを極力避け、慎重に国会構内の内張り(内側)配置とする。

ニ、警備指揮および部隊運用上の心構として六月四日の警視総監訓示の趣旨に則り、指揮官は部隊をよく掌握し、言動を慎しみ感情を抑え、冷静に事態を判断し、しんぼう強く対処して大局を誤らないように指揮すること、とくに警棒は原則として使用しない方針で臨み、万一部隊として使用せざるを得ない情勢になつた場合は指揮官が使用の限界を明示しまた収める時期についての判断を適確にしなければならない。

ホ、右翼に対しては右翼対策部隊をおき適正な取締を行う。

ヘ、不法事犯に対しては、全般の状況に応じて現場または事後に検挙することとし、そのための採証活動を活発に行う。

3 これによつて警察総本部長玉村四一は警視庁内の警察総本部にあつて当日の重要警備対象である国会周辺、首相官邸、同私邸およびアメリカ大使館の警備とこれに関連して警視庁管下全体の治安対策および隣接各県との連絡等の任務を帯び警備の総括指揮者となつた。しかし他面玉村警備総本部長は警視総監小倉謙に対しては随時警備の推移を報告し、必要に応じて小倉警視総監の指揮を受ける立場にあつた。(このうち警備指揮の関係については、請求原因七に対する認否七の範囲では争いがない。)

また国会周辺、首相官邸およびアメリカ大使館の警備を担当した方面警備本部長藤沢三郎は直接には玉村警備総本部長の指揮に従うことになるが、担当地区の警備についてはあらかじめ指示された方針に基づいて現場における指揮の最高責任者として警察部隊の運用をほとんど委ねられただ現地からの情報に即応して要点についてのみ玉村警備総本部長と有線電話で意見を交換し、具体的な指示を受けた場合はこれに従う立場にあつた。

そして本件で問題となる警視庁第五機動隊は隊長末松実雄警視の下に約四個中隊計四三八名の隊員からなるが六月一五日は藤沢方面警備本部長の指揮下に入り最初は第一機動隊第三機動隊と共にアメリカ大使館の警備についた。

(二)  国会周辺の警備の実施状況

(証拠―省略)を総合すれば以下、1ないし9の事実を認めることができ、これを覆すだけの証拠はない。

1 藤沢方面警備本部長は六月一四日の警備会議で決定した方針の下に国会周辺、首相官邸およびアメリカ大使館の警備の現場における最高責任者として指揮をとることになり、一五日午前一〇時三〇分頃国会正門の内側に指揮官車を駐車させ、ここに方面警備本部を設け、午後一時三〇分頃指揮官車に入つた。

藤沢方面警備本部長が指揮官車に入る直前に警備担当地区を一巡した時には国会周辺には既に安保改訂阻止国民会議の主催するデモ隊が続々として詰めかけ国会議事堂を取り巻くような形で続いていた。このほか当日のデモ隊の移動、状況については、藤沢方面警備本部長や、その指揮下の各方面本部長、各機動隊長その他方面警備本部に出入する者の目撃したところおよび藤沢方面警備本部長指揮下の各部隊の無線車からの報告によつて、おおよその情報が得られる仕組になつていた。

2 また六月一五日までに警視庁警備部で入手した情報によつても一五日にはいわゆる全学連主流派、反主流派合計約一七、〇〇〇名のほか都労連約三、〇〇〇名安保改訂阻止国民会議の地方代表約一、〇〇〇名、人権を守る婦人協議会約一〇、〇〇〇名、労組、民主団体の自主動員数万名といつた各種団体による国会集団請願行動が行われるらしいことが予測されていた。

そして、当日までに入手した情報およびこれまでのデモもしくは請願行動の実情などから判断して、警備担当者の方では、安保改訂阻止国民会議傘下の団体の集団請願行動はデモの実質をもつとしても過激な行動に出ることは予想されず、国会構内への侵入などの事件を起すおそれがある団体はもつぱら全学連に属する学生の集団とみていた。このことは「六月一一日に行われる安保改訂阻止国民会議ならびに全学連の国会集団陳情に対する衆参両院の態度」として六月一三日に警視庁に寄せられた要請の中にも「全学連の集団陳情(請願を含む)は受付けない。ただし平穏に三々五々請願する場合は例外とする。当日統一行動参加団体以外の請願があつたときは、それが平穏であるかぎり各議院面会所で受付ける。院構内には一人たりとも不法に侵入されることのないように強力な警戒態勢を望む。もし侵入された場合は退去を要求し、これに従わない者は排除または逮捕されたい。」とあつて、これが前記二(一)の2警備会議の席上でも披露され警備の要領を定めるにあたつても反映された。

5 方面警備本部では無線車からの情報などを総合して十五日午後五時頃までに国会周辺に請願行動その他で動員された人員は七万名を越えた程度と把握したが、これを全学連、労働組合、その他の団体の三つに大別して情勢判断を行つていた。

そのうち同時刻頃国会南通用門附近には全学連主流派とみられる学生約七、八千名が集結していたが、指導者の煽動により午後五時三〇分頃から南通用門を開扉して国会構内へ侵入しようと行動を開始した。当時南通用門は閉鎖し、かんぬきをかける等して容易には開かないようにされており、阻止用車輛四台が置かれてあつたが、学生の集団はこれらの障害を突破し、数次にわたる警官隊との衝突の後、ついに午後八時頃には国会構内へ侵入することに成功し、午後八時三〇分頃にはその数約三、四千名と算えられる学生が警官隊と対峙の姿勢に入つた。

4 当時南通用門附近の警備指揮を担当したのは、藤沢方面警察本部長指揮下の第五方面本部長であつたが、第五方面本部長からは午後六時過ぎ頃すでに藤沢方面警備本部長に対し侵入してくる学生デモ隊を排除するため催涙ガスを使用してよいかどうか請訓があつた。しかし藤沢三郎は玉村警備総本部長と意見を交換した結果、風向および学生集団が安全に退避するだけの余地に乏しいことおよび夜間の混乱などを考慮し不測の事故を防止するため催涙ガスの使用を許さなかつたのみならず、無理に学生の集団を排除することも慎み、ただこれ以上国会構内を占拠されないように現在の阻止線で対峙の姿勢を固め、夜明けまでも現状維持を続けることを指示した。

なお警備担当側ではこの頃麹町警察署からの情報によつて女子学生一名が警官隊との衝突によつて死亡したことを知つた。

5 その頃小倉警視総監は東京都議会に出席していたが、学生側に死者が出たとの知らせに午後九時頃急ぎ警視庁に戻り、玉村警備総本部長から事情を聴取し、右4の措置を適切なものと認め、朝まででも現状のまま対峙するようにと意見を述べた。

6 そのうちに南通用門から国会構内に侵入していた学生の集団は警察官との衝突によつて学生数名が死亡したと主張し、国会正門内に入つて抗議集会を開こうとの煽動演説に従い、午後一〇時頃から一旦は対峙している警官隊との阻止線に圧力を加えこれを突破するかに見えたが、警察官の部隊がこれを押し返すと、一転して南通用門から国会構外に出、正門方向へ移動を開始した。

その途中で学生側は南通用門に置いてあつた前述の阻止用車輛を国会構外に引き出し、何者かが次々に火を放つていつた。このようにして国会正門前に集結した学生は、国会正門の警備についている警察官に対し頻々と投石し、正門詰所の一部が破壊されたりしたが、とりわけ、これら学生の集団の中から出たと覚しき人物が正門前に置いてあつた警察の阻止用車輛を繋留ロープを切断しては順次引き出し横転させ放火していつたため炎と煙と罵声が入り混り、時折見舞う雨も手伝つて、国会正門を隔てて対峙する両者の空気は異様に緊迫し、一六日午前零時に至るもその勢力はやむどころが、かえつて阻止用車輛が引き出されその数を減じるにつれて、学生集団が正門を突破して国会構内に再び侵入する気配は濃厚になり、リーダーらしい人影が国会構内に入つて座り込むことを煽動している模様が警備の警察官の部隊からも認められた。警備側はそれまでにも繰り返しこのような違法行為を中止し、解散するように警告していたが全く効果はなかつた。

7 藤沢本部長はじめ方面警備本部の幕僚幹部は、このような投石、放火を敢えて犯す正門前の集団を南通用門から転進してきた全学連所属の学生と認めその侵入を阻止し解散させる方法について検討すると共に玉村警備総本部長に対しては電話で一六日午前零時をやゝ廻つた頃から事態は放置できない段階に立ち至つたこと、もしデモ隊の侵入を許すようなことになれば激しい衝突が起り彼我に負傷者を出すことは目に見えており、深夜のこととて院内にまで侵入を許すことにもなりかねないから、抵抗を抑えしかも負傷者を出さないでデモ隊を解散させるためには催涙ガスを使用する必要があることを繰り返して訴えていた。

これについて玉村警備総本部長は、小倉警視総監の意向を訊ねたところ、警視総監としては催涙ガスの使用だけにとゞめ警察官の部隊行動を併用しないでデモ隊を解散させることが望ましいと答えたので、玉村警備総本部長もその旨を藤沢方面警備本部長に伝え再考を求めた。藤沢は現場の意見を徴した結果玉村に対し、催涙ガスだけではデモ隊が若干後退する程度でとうてい解散させることはできず正門を突破される危険は続くから警察部隊に出動させてデモ隊を排除する方法を併用しなければならないとの意見を再び電話で具申した。玉村警備総本部長および小倉警視総監はこれに対して更に、学生側に死者が出た際のことであり、負傷者も既に数百名に達している模様であるから、部隊を出動させるとしても警棒を使用しないでデモ隊を排除する方法を考えてもらいたいと希望を伝え、なお警視総監の意見として、「車は金で買えるものであり、要はデモ隊に国会構内に入られないように警備することにある。」との趣旨の言葉が、また警備総本部長からも怪俄の出ない排除をとくに望む旨がそれぞれ藤沢方面警備本部長に伝えられた。これについては藤沢は玉村に対し、警棒を使用しない方針には賛成であるが、どのような事態が起るか予測出来ないから絶対に使用しないとは断言できないと答え、結局、警備総本部としても方面警備本部の方針を必要やむを得ないものとして容れることになつたがなお警棒等の行使は慎重にするように念を押し、藤沢方面警備本部長もその趣旨を予解したが、これらの折衝は一六日午前一時一〇分頃まで前後約一時間に及んだ。

8 他方で藤沢方面警備本部長は昼間から国会正門前の警備についていたため疲労の色が見えてきた第二機動隊を他の部隊と交代させることにし、当日アメリカ大使館の警備にあたつていた第一第三、第五の各機動隊合計約一、五〇〇名を一六日午前零時頃国会に転進させ直ちに正門内側で警備につかせた。(たゞし第五機動隊第三小隊は一五日午後六時頃すでに国会構内へ転進していた。)したがつて藤沢方面警備本部長が警備総本部との間で右7のような折衝をするについては、指揮官車に第五、第七各方面本部長および第一、第三、第五各機動隊長が集り、正門前のデモ隊の排除方法について抗議が行われたもので、この協議の結果が右7のとおり結局警備本部に対して現場の意見として具申されていた。それゆえ、第五機動隊長をはじめ各機動隊長もこのような経過を通じて、小倉警視総監、玉村警備総本部長がデモ隊の排除活動に対しては懸念を抱いていることを知りとくに警棒の使用については慎重を期して欲しい意向であることが予解できた。

9 当夜国会正門の警備についた第五機動隊の隊員の中からは、前記のような異常の事態を目撃して「どうして前に出ない、傍観するのか。」「どうしてやらせないのだ。早く前へ。」などという声も挙がり、警備についている警察官の一部には事態を憂慮し積極的にデモ隊の排除活動に出ることを促す空気が醸し出され、方面警備本部から玉村警備総本部長の許にも一五日午後一一時から一二時頃の間に、現場では車輛放火の犯人を逮捕しなければならないとはやはり立つ空気があることが報告されていた。

(三)  第五機動隊の部隊行動

(証拠―省略)を総合すれば以下1ないし3の事実が(中略)認められる。

また(証拠―省略)を総合すれば下記6ないし10の事実を(中略)認めることができる。以上の認定を覆すに足る証拠はない。

1 右(二)8のとおり方面警備本部長藤沢三郎は情勢がますます緊迫してくることを考慮し六月一六日午前零時頃アメリカ大使館の警備についていた警視庁第一、第三、第五機動隊合計約一、五〇〇名を国会構内へ転進させ、それまで国会正門附近の警備にあたり、疲労の色も見えてきた警視庁第二機動隊と交代させ、同所の警備を強化する一方、新に転進してきた右各機動隊長を加えて直ちに方面警備本部が設けられた国会正門内の指揮官車において全学連所属学生を主体とすると判断される国会正門前のデモ隊の今後の動向と対応策について何回となく協議した。

2 その協議は、一六日午前一時過ぎまで続き、その間正門前に集結したデモ隊の一部とみられる人間が正門前にロープで繋留してあつた十数台の警察の阻止用車輛を次々に引き出しては横転させる等して放火し、警察官が構外へ出てこれを制止しようにもデモ隊からの投石が激しく、尋常の装備手段では不可能な情勢であり強いて警察官の部隊を出動させるときは、デモ隊との間に大きな衝突を起し、無用な流血を見る惧れも大であつたため流血の惨を避け得るものならば車輛の毀損行為のごときは座視するもやむを得ないとの警視総監の意向もあつて、やむなく炎上を手を拱いて見守るほかはなかつた。

このようにして正門前の事態は推移し、一六日午前一時一〇分頃には、正門前には僅に二台の車輛を残すのみでその他は次々に引き出され、放火され、阻止用車輛が正門前から姿を消すにつれて、正門前に集結した二千名前後とみられるデモ隊から投石は一段と激しさを加え、正門の扉を結んであつたワイヤーないしロープの類もデモ隊の手で切断されかゝり、遂にデモ隊は正門の門柱をロープを掛けて引き倒そうとし始めた。

3 このような情勢とそれまでの全学連所属学生とみられるデモ隊の言動から見て方面警備本部では本部長藤沢三郎はじめ、各幕僚・幹部の意見が、デモ隊の正門突破の危険が切迫したことこの危険を未然に回避するためには先手をうつて催涙ガスの使用と部隊活動とを併用しデモ隊を国会正門前から排除しなければならないことで一致し、藤沢から前記(二)7のように警備総本部長玉村四一に対し遂次現場の情勢を報告しつゝ催涙ガス部隊活動による排除行動に出ることについて了承を繰り返し求めた結果、警備総本部長および警視総監も初めは部隊活動とくに警棒使用については懸念を示し、容易に承諾を与えなかつたけれども午前一時一〇分頃に至つて国会構内への突入という切迫した危機を解消するためには方面警備本部の決定した方法によらざるを得ない事態に立ち至つたものと判断し時機を失すると却つて彼我の犠牲が大きくなることも予測されたので遂にこれを了承した。

4 そこで藤沢方面警備本部長は午前一時一〇分を廻つた頃、催涙ガスの使用警告が発せられた後に催涙ガス筒を投擲し続いて構外へ進出し、正門前のデモ隊をチャペルセンターから宮城の堀端へ向つて排除して行くこと、第三機動隊は第一機動隊と共に右排除を行うこと、第五機動隊は正門前から恩給局前にかけてのデモ隊を人事院ビル方向へ排除して行くことを各機動隊長に命令した。

第五機動隊長末松実雄をはじめ第一、第三機動隊長が受けた命令は右の通り極めて簡単なもので警棒の使用その他具体的な排除の手段についてその場では格別の指示、注意はなかつた。しかし右1ないし3の情勢の中での協議とその間に方面警備本部との連絡し催涙ガスの使用および部隊行動等について承認を取りつけるまでの経緯を通じて警視総監および警備総本部長が警棒の使用その他部隊行動について非常に慎重を期し、できれば催涙ガスだけでデモ隊を解散させたいとの意向まで伝えてきたことなどから最終的には方面警備本部の前述のような排除方法が承認せられ警棒の使用が禁止せられたわけではないけれども、前示(二)8のとおりこの点については慎重を期してもらいたい意向であつたことは第五機動隊長をはじめ各機動隊長も了解できたところであつた。

5 藤沢方面警備本部長から第五機動隊長末松実雄に下された命令は、右4の通り国会正門前から恩給局側のデモ隊を人事院ビル方向へ排除することであつたので末松隊長は直ちに国会構内に待機していた第五機動隊に戻つて、出動に備え無用な抵抗を避けるため自ら携帯用電気メガホンで正門右手(構内からみ)の土手上から正門前ないし恩給局側に居たデモ隊に向つて「事態は騒擾と認める。関係ない方は帰つて下さい。」との警告を発した。続いて一六日午前一時一四分頃麹町警察署長の名前で正門前に集結しているデモ隊に対し、催涙ガスを使用するから至急解散せよとの警告がマイクを通じて繰り返されこれによつて第五機動隊員も出動を予知した。(当時一般にガスの使用は部隊行動による群集の排除と併用されていた。)

警告につづいて国会正門前のデモ隊に向つて催涙ガス筒が投擲される音が聞え、第一、第三機動隊の出動する気配を感じた第五機動隊長末松重雄は「五機動前へ」の命令を発し、指挿下の四箇中隊約四五八名に対しては「事態は騒擾と認める。抵抗する者は逮捕せよ。逃げる者は追うな。」との指示を与え、自ら先頭に立つべく国会正門右側(構内からみて)の土手を下り、当夜の編成順に従つて、第二、第四、第三、第一の順で各中隊がこれに続いた。(各中隊が右土手を下りた位置は正門寄りすなわち最左端を第二中隊それから少しずつ右すなわち南通用門に寄つて第四、第三、第一の各中隊がこの順序で出動した。その大体の地点は別紙細図Ⅰのとおりである。)

6 末松第五機動隊長が出動に際して下した命令および指示は右のとおりで警棒使用については事態に即応して判断するべく格別の指示を与えなかつたし、指揮下の各中隊長もこの点については中隊員に格別の指示を与えなかつた。

なお「騒擾と認める。云々」は末松の個人的判断で警備総本部長ないし方面警備本部でも騒擾罪に該当するか否かを議する声はあつたが騒擾罪の構成要件に該当するとの判断は下されなかつたし、末松自身も「騒擾」と感じたのは国会正門前の事態に限つてのことであつた。

而して当夜の第五機動隊員は、通常の警察官の制服に雨合羽を着用し、一部は雨合羽を着用せず鉄かぶとを被つていたが、中には催涙ガスに催えて布で鼻口を覆つた隊員もあつた。また第五機動隊が土手を下り国会塀外の恩給局前路上に進出した時排除の対象となつた恩給局前のデモ隊の波は多く感じるもので五、六百名少く感じる者で一、二百名とみた程度で、個人差はあるけれども出動の時間的差異を考えても多くて三百名から五百名前後ではなかつたかと推認される。

7 第五機動隊の先頭に立つて出動すべく第二中隊長井上善正は部下約百名に対し「まとまつていけ、バラバラに行くな。今から行くぞ前へ。」と指示命令を下し先頭に立ち国会構外へ進出すべく右側土手を駈けおり、下りたところで末松が第五機動隊長の「危い前へ出るな」という指示を耳にした。

しかし同中隊は土手の上に出た時からすでに恩給局前のデモ隊の投石にされていたうえデモ隊はプラカードや棒をもつて反撃もしくは抵抗する態勢にあるような気配を感じたので土手を駈け下りた所でそのまま中隊を滞留させるのは却つて危険であり、そうかといつて土手を上つて退却することもできない、そのまま前方すなわち南通用門方向へデモ隊を押すような形で中隊を進め、逃げるデモ隊を追つて緩やかな上り勾配の道路を進みその間投石など若干の抵抗はあつたけれども顕著な衝突もなく南通用門の手前まで一気に進出した。

ここで左前方すなわち南通用門の向い側にある地下鉄第一入口とその附近の路上にかけて、追われて逃げてきた者とデモ隊の一部とみられる相当数の群集が立ち上り、坂道を上つてくる第二中隊に反撃する気構でいるのを認めたがその時「前へ行く者は退れ」という末松隊長の命令を聞いたので井上第二中隊長は南通用門前の丁字路で中隊を停止させ後続隊員が追いつくのを待ち中隊の態勢を整えようとした。しかしその間に前面のデモ隊からは罵声と共に絶え間ない投石があり第二中隊の標識灯もそのため破壊され、井上中隊長にも石が当りさらにデモ隊の中から一団の者がプラカードや棒類をもつて第二中隊めがけて殴りかかつた。これに対し第二中隊の第一小隊長大塚秋雄以下十四、五名が反撃を封じようと試み、若干の隊員は警棒を抜いてデモ隊の反撃に応じていた。

そうこうする間に第二中隊の右横を第五機動隊第四中隊が中隊長森田高義に指揮され前方すなわち首相官邸の方向へ進出して行つたので第二中隊長井上も第四中隊に遅れをとらないよう再び中隊を前進させることにし、南通用門附近から後退するデモ隊を追つて第四中隊の左側すなわち道路左端の衆議院車庫寄りを進みその間同車庫の塀寄りに相当数のデモ隊と認められる人影があつたのを排除しながら首相官邸前の十字路まで進出したところで第四中隊と共に一旦停止し、第五機動隊として何処まで排除して行くかあらためて指示を待つことになつた。なお第二中隊員のうち数名は南通用門の丁字路から左折して霞ケ関交番の方へ進んだので首相官邸前の十字路方面へ排除活動には参加しなかつた。

3 イ、第五機動隊第四中隊約百名は中隊長森田高義の指揮の下に第二中隊に続いて第二中隊よりやゝ右に寄つた地点から土手を下りて恩給局前路上に進出したがその時にはデモ隊が南通用門方向へ逃げて行く姿が見えた。そこで第四中隊は土手を下りた地点で隊形を整えたのち、第二中隊の後を追うように南通用門方向へ坂道を上つて行つたが第四中隊員のうち少くとも三名はこれまでの緊迫した情勢に刺激され、国会構外へ出動する際すぐに個人的判断で警棒を抜いて(腰から外して手にもつて)いた。

第四中隊森田は南通用門前の丁字路附近とくに地下鉄第一入口から国会側旧議員面会所の前あたりにかけて道路を斜めに横断するような形で追われていたデモ隊とみられる約五、六百の人影が固つており、数本の旗が動いているのを認め丁字路に居た第二中隊の位置より手前で隊形を整えるため一旦第四中隊を停止させたが、その時デモ隊の一部が前方の第二中隊に対し旗竿等で殴りかかつているのを目撃し、隊形を整えるや再び前進して、第二中隊の右手に出、そのまま南通用門を通り過ぎたところで、デモ隊と直面した。しかし前面のデモ隊は直ちに首相官邸方向に退却し、残つた五、六名の者も焚火の燃えさしを投げつけて逃げ去つたので、これに追尾するような形でデモ隊との間隔をつめるべく早足でさらに進んだ。(デモ隊との距離をつめないと投石による被害が増える危険があつた。)

ロ、すると、再び前面にデモ隊と思われる集団(後記三に認定したところを対照すれば、これが「大・研・研」であると考えられる)があつて中央附近はスクラムを組み、旗竿を横に構えているのが目に入り、一部では第四中隊や第二中隊との間に押し合いが始つている光景が目に入つた。

その時森田の前面にあつたデモ隊の中からたすきを掛けた指揮者のような姿の者が二名出て来てそのうちの一人が森田に対し「指揮者は誰か、君か」と呼びかけなから近寄り話かけようとした。しかし第四中隊長森田はこの時すでに左手ではデモ隊と第五機動隊員との間に衝突が起り、プラカードや警棒が振り廻されているのを見たので投石の危険もあり、ここで部隊を停止させることは事態の解決を長引かせ無用の混乱を増すだけと判断し、このたすき掛けの指揮者らしい者の話かけには取り合わないこととし、デモ隊を指さして「早くあれを解散させよ」と言うと同時に前進した。その時森田中隊長は長さ一、二メートルの白い指揮棒を持つていた。

ハ、それから首相官邸まで衆議院車庫前の道路上を主として第四中隊は右すなわち国会寄りに第二中隊は左すなわち衆議院車庫寄りにほゞ併進する形で前方のデモ隊を排除して進んだが初めのうちは前面のデモ隊は第四中隊が進めば向いあつたまゝ後退するといつた具合に排除の程度はさほど大きくなかつた。しかしデモ隊の後部すなわち首相官邸寄りの人間は警察官に背を向けて逃げ出す模様であることが感じられ、首相官邸前の十字路まで来た時には第四中隊が第五機動隊の先頭になつていたので、孤立するのを避けるためそこで一旦中隊は停止し、排除のため進むか指示を仰ぐことになり、ここで再びデモ隊と対峙するような形になつた。なお第四中隊員の中にも南通用門前の丁字路を左折して霞ケ関交番の方向へ進んだ者があり、これらの隊員は衆議院車庫前路上の排除活動には参加しなかつた。

ニ、第四中隊と第二中隊が、衆議院車庫前路上を進んで首相官邸前十字路で停止し、指示を待つているところに、第五機動隊第三中隊が追いつき右手に並び第五機動隊副隊長永井俊男が先頭に出て、十字路を左折してやや急な坂を下り特許庁方面へ再び前面の数百名とみられるデモ隊を押すような形で前進を命令した。これから後はデモ隊の逃げ足が次第に早くなり道路の左右には若干の逃げ遅れたデモ隊の影があつたけれども大勢はグランドホテル前附近からは駈け足で特許庁方面へ逃げ出した。したがつてデモ隊からの投石も減つたが首相官邸前十字路で一瞬デモ隊と対峙する姿勢に入つた時にはなおデモ隊の後方や横の方からかなりの投石があつた。

9 第五機動隊第三中隊約九七名は中隊長大栗元市の指揮の下に第二、第四、中隊に続いて、第四中隊が国会構外へ進出するために下りた地点よりやや右に寄つたところで土手を下り恩給局前路上に出たがこの時、すでに南通用門の方向へ標識灯を掲げて進む中隊があるのを認めた。なおこのところでは第三中隊はさほど投石を受けなかつた。第三中隊は五月二三日にデモ隊の排除活動に従事したとき、デモ隊の中に巻き込まれて苦労した経験があつたので中隊長大栗は南通用門の手前で一旦車道上に第三中隊を集め隊形を整えたが、その間中隊員から「他中隊の実力行使を傍観するのか」「どうして前に出さないのだ」との声が挙つた。程なく同中隊長は先行する中隊に追いつくべく前進を命じ、早足で首相官邸前の十字路に達し先行した中隊の右横へ出てデモ隊と直面し一瞬止つた時に、永井副隊長の命令が下り第二、第四中隊と共に特許庁方面へ坂を下りデモ隊を排除して行つた。なお大栗隊長は南通用門手前で隊形を整えさせた時、二〇メートルほど前方で、相当数のデモ隊を第二、第四中隊が半ば包囲するような隊形で囲んでおり緊迫した空気があるのを感じた。第三中隊は首相官邸前の十字路に達するまでの間に地下鉄第一入口附近や衆議院車庫前路上で数十名程度の逃げ遅れたかどうかしたデモ隊の姿を見かけたが、これらは格別抵抗する気配もなく、大勢としてはすでに排除が終つたあとで、積極的な排除行動に出ることもなく、もつぱら先行した中隊に合流するため道を急いだ。ただ首相官邸前十字路に達した時には前面真近いところから特許庁へ下る坂にかけて集団をなしていたデモ隊や、右手すなわち記者会館寄りのデモ隊から投石を受け中隊の標識灯が損傷し、ここで初めてデモ隊と接触した。そこで大栗中隊長はデモ隊に巻き込まれないように指揮棒を構え、部下が前に出過ぎないように制止しながら、デモ隊を特許庁の方向へ圧して行つたが、首相官邸前の十字路で第二、第四中隊の右手に出た位置関係からみて、第三中隊の主力は特許庁方向へ下る坂道の右寄りを進んだものと推測される。

第三中隊の主力はこのように第二、第四中隊に比較してデモ隊と直接衝突する機会は少くなかつたがそれでも少くとも四名の隊員は警棒を抜いたことを自認しまた、若干の隊員は中隊より先行して行動した。

10 第五機動隊第一中隊約九九名は中隊長松田善次郎指揮の下に第五機動隊の最後尾の中隊として、四箇中隊のうち最も右寄りの地点から土手を越えて恩給局前路上に出たが、その時には前面の道路上にはデモ隊とみられる人影が、そこここに数名ある程度で一部に投石を感じた者もないではなかつたが大勢としては排除が終つていた。

第一中隊は土手を下りて国会寄りの歩道上で六列縦隊に隊形を整えたが前方の状況はさだかでなかつたので早足で南通用門方向へ緩い坂道を上つて行き、南通用門の手前で一旦停止、隊員で遅れた者が居ないかどうか確めた。再び首相官邸方向へ先行する部隊を追つて進むと左手の地下鉄第一入口附近から衆議院第二議員館前にかけてデモ隊の一部とみられる相当数の人影があり、罵声と共に棒切の類が投げつけられ、また投石もいくらかあつて二人隊員が傷を受けた。しかし先行する各中隊の姿は未だとらえられないので第一中隊はなおも並足で衆議院寄りの歩道上を前進し、首相官邸前の十字路に達したが、その間とくにデモ隊の集団と衝突ないし接触するようなこともなかつた。

第一中隊は首相官邸前十字路で、右手の記者会館および衆議院議員面会所附近は多数のデモ隊と認められる集団(これは確認三の事実と対照して「大・研・研」とは異るものと認められる)がいるのを見、他の三箇中隊とは反対に十字路で衆議院寄りの歩道を右折しそちらに向いかけた時、首相官邸の前あたりで第五機動隊長末松実雄が電気メガホンで「五機動こつちだ」と呼んでいる声を聞き、急ぎ反転して特許庁へ下る坂道を右ななめに首相官邸寄りに坂下門の前まで進んだところで末松隊長の命令で停止した。

このように第一中隊は第五機動隊の最後尾にあつた関係で中隊として直接デモ隊と衝突しあるいは接触したことはなく中隊員のうち警棒を抜いたことを自認する木内巡査の場合も首相官邸前十字路を右折して暫く進んだ後再び首相官邸方向へ反転する間のことであつた。もつとも第一中隊のうち数名の者は中隊より前は出ていたことが後に判明した。

(四)  警棒等の行使

(証拠―省略)を総合すれば下記1ないし3の事実が認められこれに反する証拠はない。

1 すでに二(一)2(2)ハおよびニで認定したように六月一五日の警備指揮および部隊運用上の心構えとして、玉村警備総本部長は各機動隊長その他の警察幹部に対し原則として警棒を使用しない方針で臨むこと、万一部隊として使用せざるを得ないときでも、指揮官が使用の限界を明示し、警棒を収める時期について適確な判断を下すことを要請し、また小倉警視総監はこれに先立つ五月二五日警視庁管下の警察署長を召集し、安保改定反対の国会請願デモに対する警備について訓示をし、連日の出動で疲労しているだろうし、感情的にもなつているだろうが、あくまで冷静に構えてかりそめにも挑発に乗らないこと、待機中は気分を和げデモ隊の立場も考えて思いやりをもつて見守るくらいの気持の余祐をもつて欲しい旨をとくに訴えている。さらには前記二(二)7、同二(三)3および4で認定したとおり玉村警備本部長および小倉警視総監は藤沢方面警備本部長をはじめとする現場の指揮官が正門前のデモ隊の排除について積極策を進言するに対し、非常に慎重な態度で臨みとくに警棒の使用については懸念を示し、催涙ガスの使用は兎も角としても警棒の行使は極力避けるように指示している。(その結果すでに認定したように第五機動隊も部隊としては警棒の行使を指示しなかつた。なお部隊として警棒の行使を指示するときは、中隊長等の指揮官が「抜け」と命令するのが通例であつた。)

このように警視総監や警備総本部長が警棒の使用について懸念を示したのは、いわゆる浦安事件の例にみられるように、これまでにも警察官の警棒の使用が行き過ぎであるとの批判を受けている例があるところ、六月一五日夜から一六日未明にかけてはすでに前記二(二)9で認定したように国会構内に待機する機動隊員の中からも正門前デモ隊の所為は黙認し難いとして速かな出動を促す声が挙るほどに警察官側にも感情的な昂ぶりがみられ、この雰囲気も警備総本部に伝えられていたので時刻が深更のことでもあり諸般の状況を考慮に入れると、デモ隊排除のため部隊の出動を承認するとしても警棒の使用についてはとくに慎重に臨むよう要求しないと排除行動の過程であるいは警棒の使用に行き過ぎが生じる惧れもないではないと考えたが故であることは察するに難くない。

2 にもかかわらず、第五機動隊隊長末松実雄は第五機動隊に出動を命じるにあたつてことさら警棒の行使について注意を与えるようなことはせずまた警棒使用の可否について別段の指令も出さなかつたため、結果的には隊員個々の判断に委ねたと同一に帰した。

今これを当法廷に顕出された警察官の手記・供述の類によつてみても、警視庁公安第一課の松原文一は当夜主として全学連デモ隊の行動を視察し、捜査およびび採証活動に従事する任務を帯び第五機動隊の排除行動の後について首相官邸前十字路を左折して特許庁附近まで行つたが、第五機動隊員がデモ隊に加つていたとみられるものに対して立ち去るように指示している現場を見たが、そこに居合わせた第五機動隊員が警棒を抜いていたのを確認しており、また第五機動隊、第四中隊、三小隊の記録係をしていた吉村天長は、所属中隊は不明だが第五機動隊員の中から「相当に抵抗されるから警棒を抜け」という声が発せられるのを聞いており、同人自身はこれに反対したけれども警棒を抜いた三、四名の隊員が土手を下つて国会構外へ出る姿を目撃している。また第五機動隊第二中隊長井上善正は、国会構内にあるとき、末松隊長から「事態は騒擾罪と認める。構内に入つて来る者は全員逮捕せよ」この命を受けたので部下の中隊員に向つて危険があれば防衛のため個人の判断で警棒を使用してもよい旨を伝えており、同中隊一小隊長大塚秋雄は国会構外へ出て南通用門方向へ進む途中、デモ隊が竹竿プラカード類で反撃してくるので個人的判断で警棒を抜いて防戦していたが、南通用門の手前(恩給局角あたり)で中隊が一旦停止した時、部下に向つて「警棒を収め」と命令したほどであり、同人の周囲に居合わせた十数名の中隊員がその時警棒を抜いているのを認めており、さらに同所で第二中隊の右横を駈け抜けて第四中隊とおぼしい一団が「警棒を抜いたままもの凄い勢いで」走つていく姿を目撃し、首相官邸前の十字路を左折した地点で同中隊二小隊の小泉巡査その他が警棒を抜いている姿を認めまた特許庁へ下る坂道の左側に駐車していた数台の自動車の間に逃げ遅れたデモ隊の姿を散見したが、そのあたりにも「警棒を使用している隊員も相当数いた」のを見ている。なお第二中隊第一小隊第三分隊長石丸金弥は国会構外へ出るため土手を越える頃同小隊長大塚秋雄が「警棒をいつでも抜けるようにしておけ」と隊員に指示したのを確認している。また第四中隊の菊原成三は首相官邸前十字路を左折する衆議院車庫角あたりで警棒を抜いて構えたところを第四中隊の部長から「お前は誰の命令で警棒を抜いた。俺が責任をとつてやる何中隊の誰だ」と衿首をつかまれ怒鳴られている。同村田昭五、同大野克二、同上村秀雄、同第四中隊田川重隆がそれぞれ恩給局前から首相官邸前十字路を左折するあたりまでの間で警棒を抜いたことを上司に報告している。

また第五機動隊第四中隊の榎本治は首相官邸からグランドホテルにかかるあたりで、二、三名の警察官が一〇名前後のデモ隊員を手拳で殴打している光景を目撃し、これを制止し、前述の吉村天長は総理府の塀が終る手前あたりで一人の警察官が紺色の背広らしい服を着た三〇才前後の男に向つて「デモ隊だろう」と言いながら手拳でまさに殴打しようとしているところを見咎め、急いでこれを制止した。なお第四中隊の川上部長は首相官邸前十字路を左折し衆議院車庫角からやや総理府に寄つた地点に駐車していた自動車の附近でデモ隊員とみられる者を殴打していた警官を制止したことが中隊長に報告されている。(これが前示の菊原成三の例に該当するものではないかと推測される。)

3 そして警視総監小倉謙および当時の警察庁長官柏村信雄は昭和三五年八月一一日の参議院地方行政委員会における質疑に答えて六月一六日一時過ぎ国会正門の車輛等に放火した学生達に対してなした排除行動の際には、警棒が武器として使用されたこと、同夜の排除行動に従事した警察官の一部に行き過ぎた警棒の使用があつたのではないかと推察される旨を述べまた警備局長三輪良雄も昭和三六年五月二五日の衆議院地方行政委員会で右排除行動に出た第五機動隊員の一部が警棒を武器もしくは用具として使用したとの報告を受けている旨を答え、柏原信雄は翌二六日の同委員会で当夜の警察官の排除行動で「一部に行き過ぎがあつたということを否定は」しないと答えている。

以上1ないし3の事実とこれを認定する資料となつた前掲証拠のその余の部分および甲第三三号証の二、五、証人島碩弥、同黒河内哲夫、同中富尚志、同永浜猛二、同畠山英高、同篠崎武、同柴野陸郎の各証言を総合すると第五機動隊員のうち恩給局前路上から衆議院車前路上を通つて首相官邸前十字路を左折し特許庁へ下る過程でいわゆるデモ隊と接触した隊員が、デモ隊を排除する手段として、あるいはデモ隊の抵抗を抑圧しもしくはデモ隊の攻撃から身を守るため少からず警棒を行使し、または拳を振るつたことは否定の余地がなく、その行使の程度および回数、延人員なども、これを確定した数字で示すことは不可能であるけれども、とうてい、被告等および補助参加人が主張するような防禦を専一にし、人員にも僅々数名といつた程度にとどまるようなものでなかつたことは疑を容れない。

三、第五機動隊による「大・研・研」の排除および原告等の受傷

(一)  「大・研・研」の排除

さきに認定した一(一)(二)の事実と二(二)(三)の事実とを対比し、これに(証拠―省略)を総合すれば、第五機動隊が恩給局前の全学連傘下と覚しき学生のデモ隊を排除すべき命令を受け一六日午前一時一五分過ぎ頃国会構外へ進出し、デモ隊を排除しながら、恩給局前路上から衆議院車庫前を経て首相官邸前十字路を左折し特許庁附近に至る途中で衆議院車庫前路上にいた「大・研・研」集団をも排除し前記一(二)のような地点に居た原告等と出会つていることは疑のないところであり、これについて反対の証拠はない。(中略)

四、警棒等の行使に対する評価

(一)  一般的限界について

すでに認定してきたところから明らかなように、原告等の受傷には第五機動隊所属の警察官によつて警棒、手拳などで殴打され、あるいは足蹴りされたことに因つて生じたと認められるものがあるが、このとき第五機動隊は国会周辺からデモ隊を排除すべき職務に従事していたものである。

警察官は職務を遂行するにあたつて必要があればその肢体はもとより警棒その他事案に応じた適切な器材を武器用具として使用することができるのは勿論であるが、これら物理的強制力すなわち実力の行使はいわゆる警察比例の原則に服すべきもので、具体的には警察官職務執行法の定める要件を充足するときにはじめて適法なものとなる。とくに同法一条二項で言うように、警察官による有形力の行使等は、すべて「必要な最少の限度」でなければならないのであつて、過剰、濫用はいかなる場合でも違法な行為である。

いまこれを武器の使用に限つて言えば、警察官が武器の使用を必要とする場合でも(イ)正当防衛(刑法三六条)、(ロ)緊急避難(同法三七条)、(ハ)職務行為(すなわち警察官職務執行法七条一号に定める兇悪犯に対処する場合および同条二号に定める逮捕等の執行をする場合)以外は人に危害を与えてはならないのであつて(警察官職務執行法七条参照)警棒もここにいう武器に含まれると解すべきことは論をまたない。これを受けて警視庁警備規程、警視庁警察官警棒等使用及び取扱規程も騒擾の鎮圧、群集の整理その他で部隊活動をする場合には、警棒等の使用は、そのいとまがない場合を除き指揮官の命令によらなければならない旨の取扱の準則を定め、後者の規程ではさらに行使の方法についても具体的に頭部等を打撃しないようにつとめて心掛けること、相手方を傷つけないようにつとめて心掛けることといつた具合に取扱の心得を示しているが、このような準則はまさに警棒等を武器として使用するにあたつて警察官として当然配慮、遵守すべきことがらであつて、そうすることが警察官職務執行法一条二項が「必要最少限度」を要求している精神にも適うものである。

(二)  各機動隊長に対する排除命令の適否および第五機動隊長の過失の有無

1 六月一五日から一六日未明にかけての国会南通用門附近、同正門前とその周辺の状況は前記二(二)(三)に認定したとおりで、全学連傘下と目される数千名の学生の集団が、一旦は南通用門から国会構内に侵入し、そこから排除された後は国会正門前(それも主としてチャペルセンター寄りで、若干は恩給局前は)集結し、一五日午後一二時頃から一六日午前一時にかけては、国会正門を突破して再び国会構内に乱入する機運が高まつてきた。この間に正門前に配置してあつた警視庁の阻止用車輛はこれらデモ隊の一部とみられる者の手で次から次へと引き出され、横倒しにされたうえ放火され、正門前のこれら集団からは国会構内に待機している警察官に対し激しい投石が続き、事態の進展には極めて憂慮すべきものがあり、警備責任者として衆参両院議長の警備要請に忠実であるためには、ここで座して侵入を待つことはかえつて危険があり、積極的になんらかの対策が樹てられなければならないと判断される段階に立ち至つた。

このような正門前の集団に対し、方面警備本部は繰り返し、制止および解散の警告を発したにもかかわらず、放火、投石などの不法行為はやまず、国会構内へ乱入される危険は募る一方であつたのであるから、このような事態に対処するため前記二(二)7、8のとおり藤沢方面警備本部長が催涙ガスおよび警察官の部隊活動を併用して正門前のデモ隊(群集)を排除しなければならないとの判断を下したこと、ならびにこれに基づいて第五機動隊長をはじめ第一、第三の各機動隊長に前記二(三)4のような内容の排除命令を下したことそのこと自体はいずれも警備責任者として適切な措置であつたと認められる。

そしてこのような状況の下に各機動隊が排除活動に従事するにあたつて警棒を使用することもそれが相手方に危害を与えないかぎり強ち違法とは解せられず、むしろ前示認定のような事態においては警察官職務執行法七条本文の要件を満していたとみるのが妥当である。(相手方に危害を加えることは、あくまで同条但書の列挙する要件のいずれかを充足するやむを得ない場合にのみ許容される。)

2 この時の玉村、藤沢といつた警備責任者およびその上司である警視総監小倉謙の判断が、国会正門前のデモ隊(チャペルセンターから恩給局前にかけて集結している集団で主として学生と認められる)を排除することにあつたことは、各機動隊長に対する排除命令からは勿論のこと前記二(三)3ないし8、同(三)1ないし4の各事実からも明らかなところで、証人(省略)の各証言からも認められる。(なお二(二)3のとおり当日の警備担当者の方では国会周辺に集る団体を全学連、労働組合、その他の団体という三つに大きく分類して考え、そのうちとくに全学連傘下の学生の集団を最も警戒していたことは二(二)2の事実および証人(省略)の各証言から窺うことができる。)

そして、このような上官の意図および認識は、方面警備本部に詰めていた第五機動隊長末松実雄も当然了解できたところとみるのが至当で、現に第五機動隊に下された排除命令も「国会正門前から恩給局側に集つているデモ隊を人事院ビル方向へ排除せよ」との内容のものであつたことはすでに二(三)4、5で認定したとおりで、末松第五機動隊長自身も二(三)6で触れたように国会正門前の事態に限つて騒擾罪の適用を擬していたものであつて、国会周辺の悉くが騒擾罪の適用を擬せられるような状況にあつたとまでは認識していなかつたことが窺われる。

3、ところが第五機動隊が実際にとつた排除活動の経路は、恩給局と国会との間の道路上のデモ隊(いわゆる恩給局側デモ隊または恩給局前デモ隊と呼ばれる集団)を国会南通用門方向へ追い上げ、首相官邸前から主に特許庁方面へ排除して行つたもので、結果的には命令と反対の方角へ排除を進めたことはすでに認定したところである。

このように命令と異つた方向へ進まざるを得なかつた原因は、第五機動隊が国会構外へ進出するときの地点が前記二(三)5のとおり極めて国会正門に寄つた地点であり、そのため進出地点の右手すなわち国会南通用門方向に相当数(すなわち三百名から五百名)のデモ隊を見出すことになつたからであること、もし藤沢方面警備本部長の下した命令に忠実に、人事院ビル方向へ排除を進めようとするならば、恩給局側デモ隊を左手に見る地点すなわち国会南通用門に寄つた地点から進出しなければ、命令された方向への排除は期待できない現場の地形であつたことはすでに認定した二(三)5ないし7の事実と現場検証の結果から容易に明らかにされるところであるが、現場検証の結果から認められる地形とくに土手の高低、植込の規模などを考慮に入れた場合に、第五機動隊がこのように人事院ビル方向への排除に適切な地点を選択する余地が当時全くなかつたとは考えられない。証人(省略)の証言によつても、このように南通用門寄りの地点から進出することに部隊の隊形もしくは所在場所からみて若干の不便が伴うであろうことは窺い得るけれども、命令に示された方向へ排除することを不可能ならしめるような障害があつたとまでは認めることができず、他に進出地点を選択する余地が全くなかつたと認められる証拠はない。

4、そうであるとしても、大きな集団を排除することは、いわば彼我の勢力の相対関係であつて、成否は相手方集団の勢力の大小と動き方によつて左右されることがらであり、臨機応変の措置を必要とするものであることは自明の理であるから、与えられた命令に示された方向へ排除して行くには第五機動隊の進出地点の選択が適切さを欠き、その結果として命令とは反対の方向へ排除して行つたからといつて、排除対象を取り違えないかぎり、そのこと自体で部外の第三者から法律上の責任を問われる理由のないことは勿論である。

しかし二(三)2で認定したように、六月一五日は安保改定阻止国民会議の主唱する第一八次統一行動によつて国会周辺には一〇万に近い大群衆が集ることは、警視庁でも事前に探知できたところで、この事態に備えて前日には二(一)2のような警備会議も開かれ、各機動隊長もこれに出席していること、また二(二)1のように一五日の当日は国会構内に広く、いわゆる「内貼り」の形で警察官を配置し、各所からの情報が方面警備本部に集中される体制をとつていたことからみれば、一六日午前一時頃になつてもなお国会周辺にはすでに認定した正門前を除いてもなおかなりの人数、集団が残留していること、もしくは少くとも残留している可能性が非常に大きいことは、同日の異常な事態から推して当然に認識しまたは容易に推測できたものとみるのが至当であり、もし末松第五機動隊長が出動にあたつてこのようなことについて認識を欠き、もしくは予測しなかつたとすれば、部隊の指揮を執るべき地位にある者として不注意であつたとの非難は免れない。けだし部隊行動の際には指揮官として当然その出動予定地域の状況について、とくに、出動の目的が強制力の行使によつて特定地域の人々を排除するにあるときは当該地域の人的物的状況について、可能なかぎりの知識、情報を得て、強制力の行使の際に対象外の第三者に不測の災害を与えないように配慮、適切な措置を講ずべき職務上の義務があるものと解されるところ、右に述べたように当時の情勢の下では正門前以外の国会周辺になおかなりのまとまつた人員、集団が点在しているであろうことは極めて容易に認識できまた予想し得たところであつたと認められるからである。

しかも、二(二)9で認定したように警備に当つた警察官の中にも、現場の異様な情勢に刺激されて逸り立つ空気があり、デモ隊の排除行動に移るときは投石などの相当の反撃も予想され、その情勢の如何によつては警棒等の行使の必要も考えれないではなかつたことを考え合わせるならば、末松第五機動隊長としては、部下の指揮掌握が必要なことは勿論のこと、与えられた命令と違つて国会に沿つてデモ隊を排除して行くときは、当然その前途に直接排除を命じられたデモ隊以外の集団ないし群衆が存在しこれと接触することが不可避的と考えられる情況にあつたのであるから、命令どおり行動する通常の場合以上に細心の注意を払い、予見される事態に対処した適切な指示を与えるように努めなければならない職務上の義務があつたものと認めるのが相当であり、これは決して過大な要請ではない。

それなのに同機動隊長は第五機動隊に向つて「五機動前へ」との命令を下したのみで、具体的に排除行動を進める方角を明示せず、また排除対象を限定するような指示を与えた事実は認めるべくもない。そして、もし末松第五機動隊長が出動の時機、地点の選択よろしきを得、かつ第五機動隊に向つて明確適切な内容をもつた命令を下していたならば、本件のような「大・研・研」に対する過度の警棒等の実力行使は起らなかつたと考えられる余地が多大であるところからみれば、以上本節に指摘した同機動隊長の部隊指揮運用上の注意義務を尽さなかつた過失は本件事故発生の少なからぬ原因となつたものと認めて妨げない。

もつとも、末松機動隊長は第五機動隊の先頭に立つて第二中隊が国会構内から出動した時に国会構内の土手の上から、中隊が猪突猛進しないように「止れ」と命じ、南通用門附近でも同様に部隊を制止したこと、それにもかかわらず部隊の進む速度は意想外に早かつたことが証人(省略)の各証言によつて認められるから、漫然と部隊の進むに任せたわけではなく、部隊の進出速度が予想外に早かつたため指揮統制を回復したときには、もはや手遅れに近かつたことが窺えるけれども、そうだからといつて右に判断したような指揮、運用上の過失が左右されるものではない。

5 被告等は恩給局前から排除されたデモ隊と「大・研・研」とを識別する余地はなかつたと主張するけれども、識別の可能性がなかつたわけでないことは、第五機動隊第四中隊の新穂巡査が現場で大学教授団という趣旨の白旗を見ており、(丙第一二号証の二七により認める)同中隊の渡辺巡査も「教授」という文字(以下の文字は不詳)が書かれてあるのぼりを目撃していること(丙第三〇号証の一五により認める)。前記三(三)1(1)ないし(3)、同4の各事実に現われているように「大・研・研」の先頭附近に居た者が「ここは教授団であり、学生ではない」との趣旨を訴えていること、前記二(二)8ロのとおり第四中隊長が「話し合う」と話しかけられていることおよび恩給局前から排除されたデモ隊は南通用門附近で一時抵抗し、そのあと首相官邸の方向へ逃走したけれども、その際「大・研・研」集団の中に紛れ込んだとみられる形跡が殆どないこと(とくに「大・研・研」集団の先頭附近では、前面に警察官が現われるまでにこのようなデモ隊が一部でも駈け込んでくれば、それによつて混乱が起るのが普通であるのに、そのような形跡は認めるべくもない。)むしろ前記三(二)1の事実からみれば、追われたきた学生は、概ね「大・研・研」の左横の舗道(「大・研・研」は舗道の右すなわち衆議院車庫寄りに位置していたので、舗道の左側すなわち国会側はあいていた)を一目散に逃げ去つたものと判断されること、「大・研・研」の先頭附近に居た者は、前面に警察官が現われた頃にはスクラムを組み、または組みかけていたことなどを総合して考えると、必ずしも「大・研・研」集団を識別することが不可能であつたとは考えられない。

もつとも本件事故が発生したのは深夜であり、それまでにも時折雨が降るといつた天候であつたから、識別できるとは言つてもそれほど容易なことではないと推測されるけれども、第五機動隊が格別の照明器具を携行しないでも部隊として排除活動ができたこと、前述のように隊員の中には「大・研・研」が携行した旗幟の文字を確認したものもあること、証人(省略)の各証言および原告清水徹尋問の結果を総合すると、少くとも二、三メートル先の他人の顔を識別することができる程度には明るく、「大・研・研」集団の中には高張提灯も二、三あつたことが認められるから、これらの諸事実から推して「大・研・研」集団を識別することが客観的に不可能であつたとまでは認められないし、第五機動隊(それも主として第二中隊と第四中隊)が衆議院車庫前路上で「大・研・研」集団と接触したとき、前記二(三)7、8のとおり若干の抵抗はあつたにしてもこのような識別をする時間的余裕が全くないほど激しい抵抗があつて、やみくもに前進せざるを得ないような情勢にあつたとまでは被告の立証をもつてしても認めることができない。かえつて、以上の事実および二8ロで認定したように森田第四中隊長に話しかけられるような、また三(三)1、4のとおり「大・研・研」の若干の者は、第五機動隊に向つて「教授団」というような言葉で「大・研・研」が正門前の学生デモ隊と違う集団であることを訴えかけるような空気さえ最初はあつたことからみれば、むしろ警察官に職務上要求される程度の冷静的確な判断の下に行動するかぎり、「大・研・研」の標識等が不十分な憾みはあるにしても識別の可能性はあつたものと認めるのが相当である。いわんや右4のとおり末松隊長には「大・研・研」のように、排除命令の直接の対象となつたデモ隊とは別個の集団をば積極的に識別すべき注意義務が課せられるに至つたことを考えるならば、少くとも同隊長には「大・研・研」を識別せず、したがつて事故回避の適切な措置をとることができなかつたことに過失があるものと評して妨げない。(以上の判断を覆すだけの信用のおける証拠はない。)

6 なお附言すれば、等しく警察官であつてもその地位に応じて職務を執行するにあたつて課せられる注意義務の内容、程度に差異があるのは当然であつて、第五機動隊員各自が指揮官と全く同一内容の高度の注意義務を課せられるわけではない。すなわち末松第五機動隊長は与えられた命令の範囲内で部隊の指揮官として部隊の排除活動の進め方、その方法について裁量権を持ち、部隊活動全体についての指揮監督の権限とこれに対応した注意義務とがあり、部隊行動にあたつては担当地域の情勢を常に大局的見地から把握し、部隊の行動に適切な指揮命令を与えなければならない職責を担つているのに対し、個々の平隊員は隊長の命令の下に行動するもので、特別の任務に服している場合を除けば行動について裁量権を生じる余地は殆どない。現に本件の場合にも隊員は、末松隊長に与えられた命令の内容(とくに、排除の方向など)を正確には知らず、また知るべき義務も要求されていない。したがつて隊員個々が正門前に限らず国会周辺のデモ隊を悉く排除すべき命令が下つたものと誤認したとしても、強ちこれを非難することはできず、前記(二)4で末松隊長に要求されたと同一の高度な注意義務までは要求できないものと解するのが妥当であり、そうであればこのような誤認の下に排除活動に従事したこと自体を過失として非難することは失当である。しかし、それだからといつて個々の警察官が排除活動のため有形力を行使するについては四(一)で説示したような注意義務を尽すべきことは勿論であつて、とくに相手方に危害を加えることは警察官職務執行法七条但書の列挙する要件のいずれかに該当する場合であつて、加害の程度が真にやむを得ない場合に限られ、それ以外は許されないものであることは言うまでもない。

(三)「大・研・研」の排除と警備担当者の予見

1 被告等は恩給局前から排除されたデモ隊と「大・研・研」集団とを識別できる余地は全くなかつたと主張するけれども、前節5で認定したとおりその可能性がなかつたとは認められず、また警備総本部長、方面警備本部長および第五機動隊長を含む方面警備本部の幕僚・幹部が正門前デモ隊の排除方法を議する時点において、「大・研・研」という具体的な集団が衆議院車庫前路上という特定の地点にいることの認識があつたかどうかは別として、少くとも排除の対象となつた正門前デモ隊とは異る別個の集団群集が国会周辺にあつたことは当然予見できたところとみるのが至当であり、このことは警視総監小倉謙についても妥当するところといわなければならない。(これを左右する資料はない。)

2 しかし、すでに認定したところから明らかなように、玉村警備総本部長および藤沢方面警備本部長のデモ隊排除の方針は、国会正門前にあつて放火、投石を恣にし、国会構内へ再突入の気配さえ見せていた全学連傘下と覚しい集団を対象とするものであつて、これを皇居堀端および人事院ビル方向に排除するように命令を下している事実および証人(省略)の各証言によれば、少くとも玉村警備総本部長および藤沢方面警備本部長は第五機動隊が南通用門方向へ排除を進めて行くこと、したがつて恩給局前から正門にかけてのデモ隊(排除命令の対象としたもの)以外の他の場所にいる集団まで排除してしまうことは考えていなかつたこと、それゆえ国会周辺とはいつても正門前以外の場所については、排除法について検討していた当時でも格別の関心を示さず、これについては状況の報告もとくに求めていなかつたことが認められる。そして、玉村四一の直接の上司である小倉警視総監といえども第五機動隊が現実にはどのような方向に排除活動を進めて行くかという点については、玉村警備総本部長以上に的確な認識、予見を持ち得たとみるべき資料はないから、その認識予見は玉村四一のそれと同一の内容、程度であつたものと認めるのが相当である。

3 そうであれば、藤沢方面警備本部長が末松第五機動隊長に向つて排除命令を発した時点においてその命令どおり人事院ビル方向に排除活動を進めて行くことが困難であると予測されるような特段の事情があつたとは認められない本件では、第五機動隊が人事院ビル方向へではなく南通用門方向へ排除活動を進めて行つたことは、少くとも小倉警視総監、玉村警備総本部長、藤沢方面警備本部長にとつては予想しなかつた結果と認めて妨げない。それゆえ、南通用門方向へ排除活動を進めて行かざるを得なくなるような地点から部隊を出動させたうえ、排除の方向、対象についても格別の指示を与えず、漫然と部隊の進路にある一辺の集団、群集を排除すべきものと隊員に誤信させるような指揮・命令を発した末松第五機動隊長については、その指揮・命令が徹底を欠くことから生ずべき不測の結果を回避するため前節4のような職務上の注意義務を生じることを肯定できるけれども、そのことゆえに当然に同一内容の注意義務が小倉警視総監、玉村警備総本部長、藤沢方面警備本部長にまで生じるものではなく、前節で末松第五機動隊長について認められたような部隊の指揮、運用上の過失を問うことはできないものと認めるのが相当である。

もとより群衆なり集団なりの排除の過程は対象となる相手方集団の動きにつれておのずと変化してゆくものであるから、小倉警視総監以下の警備首脳も、事情の如何によつては第五機動隊が命じられた方向とは違つた方向へ排除して行かねばならない事態に陥る場合を想定する余地が絶無であつたとまでは考えられないけれども、本件の場合には、すでに認定したように第五機動隊が人事院ビル方向へ排除して行くことを不可ならしめる客観的な障害があつたとは認められないのみならず、たとえ命令と違つた方向へ排除せざるを得なかつたとしても、排除の方法が適切妥当なものであるかぎり第三者からなんら法律上の責任を問われる理由はない。それゆえ出動命令を出すにあたつて各機動隊長に警棒等の行使に行き過ぎがないよう適切な指示、訓戒を垂れる必要があるかどうかは別として、具体的な命令の執行とそれから発生することが通常予想される範囲を越えた事態まで想定して、これに対する具体的な抑止措置を講じなければならない義務があつたとまでは考えられない。(なお右に留保した点での過失の有無は後に判断する。)

(四)  原告等に加えた排除行為の適否

1 まえおき

本章(二)で判断したように、末松第五機動隊長は別として、一般の第五機動隊員には、「大・研・研」を恩給局前から排除していつたデモ隊から識別することが期待できない事情にあり、また原告個々を恩給局前デモ隊の一員と誤認したことに責むべき点がなかつたとしても、以下判断するように原告等に加えた警棒等の有形力の行使は本章(一)で検討した法規上許容される限界を逸脱した違法なものと認められる。

2 「大・研・研」排除の適否

(1) 「大・研・研」が東京都条例四四号(いわゆる公安条例)に基づく集会届を提出せず、したがつて集会の許可を受けてもいなかつたことは弁論の全趣旨に照らし明らかである。

しかし無届集会であるからという理由だけで、何時でも、如何なる方法ででもこれを解散させることができるものと解すべきではない。けだし集会の自由は憲法によつて保障される基本的人権の一であるから、これを保障した憲法の趣旨に照らすときは、集会の解散を命じる措置は集会の不許可処分と同様に極めて厳格な要件の下にのみはじめて許されるものと考えるべきであり、その厳格な要件とは結局その集会がそこで行われることによつて公共の秩序にさし迫つた明白な危険を生じていると認められる場合と解するのが相当である。

それゆえ東京都公安条例に基づいて、警視総監には無許可集会等の参加者に対して、公共の秩序を保持するため必要があれば警告を発し、違反行為の是正に必要な限度で所要の措置をとる権限を与えられてはいるけれども、これを強制的に解散させる措置は公共の秩序に対するさし迫つた明白な危険がある場合にのみはじめて適法になし得るものといわなければならない。(強制的な解散にまで至らない解散の勧告や、誘導などの措置は具体的な場所での公共の秩序保持の必要性の強弱に応じて適宜取捨選択してなしうることは勿論である。)

(2) 被告等は「大・研・研」も国会正門前で投石、放火、破壊等の暴挙を恣にするデモ隊と気脈を通じていた過激な性格の戦闘的集団であり、第五機動隊等が排除行動に出る時には、騒擾罪の成立が擬せられる程の緊迫した情勢にあつたと主張する。

なるほど問題を国会正門に限定してみるときは、すでに限定したとおり、事態はかなり険悪なものがあつたことは否定できないところであるが、それは正門前という極めて局所的な現象であつて、国会周辺と呼ぶほど広い範囲にわたつて、これと同様な緊迫した情勢が醸し出されていたとは、とうてい認められない。現に前記二、(二)6、7、(三)1ないし3に認定したところからも明らかなように、少くとも一六日午前零時頃からは、専ら正門前に集結していた全学連傘下の学生とみられる集団の動向とその排除に警備首脳部の関心が集中しており、これ以外の地域の情勢については楽観し、いわゆるデモ隊の規模集団の個性などについてとくに意識して情報を収集しようと試みもしくはそれを要求した形跡は認められないことに照らしても先に述べたことは首肯される。加うるに、「大・研・研」が被告等の主張するほどの強制力を行使して排除しなければならない戦闘的な性格の集団であつたとか、正門前で暴行を恣にするデモ隊と気脈を通じその活動を支援する意図があつたという事実はこれを認めるに足る証拠はない。なるほど深更まで「大・研・研」集団に残留していた者の中には、国会構内に侵入し再突入をも企てていた全学連傘下の学生の集団の行動に共感を覚え、その行動を是認し、あるいは支援的な言辞を弄している者もないではないことが甲第八、九号証の記載から窺えないわけではないが、これをもつて「大・研・研」集団全体の性格を推し図るのは早計であり、被告等主張のような性格、意図の集団であると即断するには足りない。かえつてすでに認定したような「大・研・研」の成立経過と当夜の待機場所、その状況およびいわゆる院内交渉団を組織して「大・研・研」なりに正門前の事態の収拾に努めていたこと等を考え合わせるならば、安保改定阻止という究極の目標では両者は一致し、かつ、「大・研・研」構成員は教職員を主体とするためなおさら学生集団の心情には理解できるものがあつたけれども、正門前でみられるような放火・投石や再度の国会構内への乱入はなんとしても回避させなければ不測の滲事を惹起するとの見解が「大・研・研」の大方の考えであつたものと認めるのが妥当であり、このほか一部の者には多少の好奇心めいた関心がなかつたではないとしても、「大・研・研」の性格としてこれをみる場合には被告等主張のようなものであつたとはとうてい考えられない。

(3) 右のとおり判断されるから、公共の秩序を保持し、または「大・研・研」集会者の身体、生命の安全を保持するため必要があれば「大・研・研」に対し警告を発し、解散を勧告し、あるいは適当な場所にこれを誘導する等の強制力の行使にわたらない範囲での措置は許されるとしても(都公安条例四条、警察官職務執行法四条、五条参照)、無届集会の主催者等は別としてその参加者自体は、それだけでは刑罰法規に触れる行為をした考ではないが単なる参加者は処罰されない)から、警察官職務執行法五条にいう犯罪行為の制止をなし得べき場合に該当せず、また本件の場合に「大・研・研」の個々参加者に対して同条に定める制止をなし得べき要件が具備していたとも認められない。

もつとも公共の秩序にさし迫つた明白な危険を生ぜしめている場合には強制的に集会を解散せしめ得るものと解すべきことは前示のとおりであるが、一六日午前零時頃からの「大・研・研」は衆議院車庫前の舗道の一部を占有するに過ぎない状態で、犯罪はもとより格別粗暴な行動に出ていたわけでもなく、交通の支障となるような時刻でもないことを考えれば「大・研・研」が未だ右にいう公共の秩序に対するさし迫つた明白な危険を生ぜしめていたものとは認められない。(正門前のデモ隊と同視すべきでないことは前示のとおりである。)

それゆえ無許可集会である「大・研・研」集団に対しては都公安条例四条にいう「制止」をなし得るにとどまるものと解するのが相当であり、ここにいう「制止」には強制的に集会者を他の適当な場所へ移動させる措置も含まれると解する余地はあるにしても、第五機動隊の「大・研・研」等に対する排除行為は、ここにいう制止の概念を遙に越えた激しい実力行使であつたことはすでに二、(三)、三、(三)で認定したところから明らかであり、適法な限界を逸脱したものである。

これに反して(証拠―省略)には、第五機動隊の排除活動は概ね穏やかであつて、警棒等も正当防衛を余儀なくされた場合を除いては使用しなかつたもののように、換言すれば、デモ隊と目した集団を排除する目的で警棒等を行使したことは全くなかつたかのような記述があるけれども、これらは排除行為の実相を認定する資料とするには信憑性に乏しく(とくに二(四)、三(二)、(三)の認定事実およびその認定に供した証拠と対比してその感が深く)にわかに採用できない。

3 職務行為としての適法性の有無

(1) 「大・研・研」集団とは異り、恩給前のデモ隊は四(二)1で認定したような状況下にあつたもので、正門前のデモ隊という呼称で包括されてもやむを得ない場所にあり、仮にこれと無関係な個人なりグループなりが混在していたとしてもこれを識別することは至難なことであつたと推測されるから、このようなデモ隊を排除するため警棒等を使用したとしても警察官職務執行法七条本文の要件を満す適法な所為と認められるから、そのこと自体をとらえて違法とすることはできない。(無許可集会としてもこの場合は強制的に解散させることができるだけの要件は備つていたものと判断される。)

したがつて、このような排除の対象となるデモ隊と明確に区別できない所にいた原告清水徹、同早川正賢の場合は、少くともこのようなデモ隊の一員と誤認され、恩給局前路上から排除されたとしても、加害の点を除けば排除自体を違法なものとすることはできない。

(2) しかし排除を行うこと自体は適法であるとしても、換言すれば排除の要件は具備しているとしても、どのような方法、程度ならば、具体的な有形力の行使が適法なものとして許容されるかは別個の問題であつて、ここでも生じ得べき相手方の損害と守られるべき法益との権衡を考慮し、警察比例の原則によつて具体的な実力行使の方法が決定されなければならない道理であり、この理は右両原告に対する場合のみならずその他の原告等に対する場合についても全く同様である。

(3) そうであるところ三(二)、(三)で認定した各原告に対する加撃の状況はいずれも警察官職務執行法七条但書一、二号に定める危害を加えることが許される場合に該当するとは認められない。

もつとも同条本文但書は「武器」の使用についての規定であるから、警棒で殴打する行為はそこに定める要件に照らして適法、違法の判断を下し得るけれども、「武器」(すなわち人を殺傷する性能を目的として作製された道具、器械)以外のものを行使した場合については格別の規定を見出し得ない。しかし、同条に定める要件は警察官が職務を執行するに際し「武器」とは限らず一般に人を通常殺傷できると認められる有形力を殺傷し得る方法で行使する場合にその適法、違法を分つ基準ともなり得るものと解するのが正当であるから、警棒に限らず棒、竹竿の類あるいは手拳、足などで人に攻撃を加え危害を与えた場合にも、同条の要件を類推してその行為が適法かどうかを判断して妨げないものと考える。したがつて右に説示したとおり、警棒、手拳その他の有形力を行使して原告等を傷害した警察官の所為が職務行為として違法性を阻却されると解すべき余地があるか否かを警察官職務執行法七条但書を基準として判断することは許されるものと考える。(けだし警棒によつて危害を与えることは許されないが道端の棒・竿などを拾つてこれで危害を与えても職務執行のためならば常に不問に付されるということは考え得べくもないし、同様に棒の類で危害を与えることは許されないけれども手拳であれば違法でないと考えるべき理由もない。)

(4) このように判断されるから、2で判断した「大・研・研」集団の排除の適法性の問題を保留して排除が適法な職務行為であるとしても、原告等に対し現実に危害を与えたことまでがこれによつて適法とされるものではない。

したがつて、正当職務行為の抗弁は理由がない。

4 正当防衛の成否

警察官職務執行法七条但書によれば刑法三六条の正当防衛の要件を満すときは、武器を使用して人に危害を与えても違法性が阻却される場合があると解される。

(1) そこで被告等のこの点の主張について考えると、第五機動隊が排除活動を遂行する経過は前記二(三)、7ないし10で認定したとおりで、これによれば恩給局前の道路に進出した時および南通用門の手前に達した時に第五機動隊のうち先頭に立つて進んだ第二中隊が最も激しい抵抗を受け、負傷者も出し、その後衆議院車庫前路上、首相官邸十字路でもそれぞれ抵抗に遭つており、これに次いで第四中隊が衆議院車庫前路上、首相官邸前十字路でかなりの抵抗に遭つたが、第三中隊は首相官邸前十字路で若干投石を受けた程度であつて、第一中隊に至つては概ね先行中隊によつて排除が終つた後であつたので正面きつてデモ隊と衝突したことはなかつたことが窺われる。

(2) これらのうち、衆議院車庫前路上および首相官邸前十字路における抵抗はすでに認定したところから明らかなように「大・研・研」集団が位置した地点とその後方にあたるから、ここでの抵抗には「大・研・研」参加者のそれが含まれていると解する余地があり、とくに衆議院車庫前路上で対峠した形になつたときは、前記三(三)の各事実から推して「大・研・研」集団そのものと直面していたものと推定される。もつとも投石は必ずしも「大・研・研」集団からのみ飛来したものかどうか疑念がないではなく、これを明らかにする的確な証拠はない。しかし投石の点を除きその他の抵抗は両者の対峠した位置関係から推して概ね「大・研・研」集団に加わつていた者の所為とみるのが妥当であり、首相官邸前十字路附近における場合もこれとほぼ同様と推定して妨げないであろう。

(以上の判断を左右するだけの証拠はない。)

(3) だが、このような事実が認められたからといつて直ちに原告等に対する前記二(二)、(三)の各加害行為を警察官の正当防衛と認めることはできない。

いうまでもなく、原告等個々に加えられた傷害は数百名に及ぶ集団と集団とが衝突した混乱の渦中で生じたものであるから、警察官の正当防衛が成立するか否かを論じるにあたつても、侵害者、防衛者と称する各自が所属していた集団相互の対立、衝突現象を捨象しては、各個人の行為の意味が薄れ事件の真相からも遠ざかる嫌いさえある。したがつて正当防衛の成否を論じるにあたつても原告等個々の所為をあくまで集団行動の場で把握し、その中の一現象として考察しなければならないものであるとすれば、原告等の所属した「大・研・研」集団の性格、行動についても考慮を払わなければならないことは言うまでもない。

しかし、そうではあつても一の集団の限られた一部の者の不法な侵害に対し、その集団の他の成員に正当防衛として反撃を加えることが当然に許されるわけではない。もし集団の成員個々の所為の間にその方法、程度などの点で殆ど軽重がなく、いわばその集団が一丸となつた状態で襲撃してきたような場合であれば、成員個々の所為に若干の差異、軽重があつたとしても、また成員中に二、三の消極的な者が混つていたとしても、集団全体の行動として把握した場合に、これらの成員の軽重、差異を審究するまでもなく、民法七二〇条の正当防衛の成立を肯定することができようが、集団行動とはいつてもこのように成員個々の所為に差等をつけるのが無意味に近いほど各個の所為が均質化されている場合でないかぎり、集団の一部の者の侵害行為をとらえてその集団の他の成員に反撃を加えることは正当な防衛とは認められない。

このように考えられるところ、被告等の全立証その他本件に顕出された資料を斟酌しても「大・研・研」集団の成員個々の所為を論じるまでもなく、これに対する正当防衛が成立し得るほどに、同集団が一丸となつて攻撃してきた事実は認めるに由なく、それほどではないとしても、先ず同集団の成員の方から進んで第五機動隊員に対し有形力を行使して攻撃を加えてきたことも未だ明白ではないし、同集団が被告等の主張するほど攻撃的な性格であつたとも認めることができない。かえつて二(三)8ロで認定したように「大・研・研」の中から第四中隊長に対し衝突を回避するため話しかけて来た者さえあつたことおよび前記三(三)1同4(1)の各事実から認められるように「大・研・研」の成長は第五機動隊に向つて、正門前のデモ隊とは違う集団であることを説明し、難を避けようとしていたことから推しても、被告等の主張するような攻撃的戦闘的な集団ではなく、また積極的に「大・研・研」の方から第五機動隊に攻撃をしかけて行つたものとは思われないのである。(なお前記二(二)6の南通用門における学生と警察官との間の衝突が起つた際、「大・研・研」が被告等指摘のようなシユプレヒコールを発したとしても、これを感情の発露とみるのはともかく、それが直ちに急迫な侵害行為に該当するものでないことは勿論、その程度のことで「大・研・研」の攻撃的性格が推認されるものではない。)

(4) のみならず第五機動隊が排除した全学連傘下とおぼしい恩給局前のデモ隊も、それが「大・研・研」とは別個の組織に属する集団であることは明らかであり、「大・研・研」との間に意思の疎通があり具体的な行動を一にする関係にあることが認められない本件では、恩給局前デモ隊の抵抗行為を理由に「大・研・研」に対する防衛行為が許されるものではなく、両集団が共に安保改定阻止を目標にしていたというだけでは両者を一体の集団とみる理由にはならない。同様にして恩給局前から排除されたデモ隊が第五機動隊に対し加えた反撃行為が「大・研・研」集団に対する正当防衛を成立させるものではない。(強いて考えれば、これらのデモ隊と「大・研・研」集団とを識別できなかつたところに誤認ひいて誤想防衛を擬せられる余地が残るにすぎない。)

(5) このように考えられるところ、前記二(三)7ないし10および三(二)、(三)の各事実を総合して窺うことのできる衆議院車庫前から首相官邸にかけての第五機動隊と「大・研・研」集団との衝突状況を原告等個々に対する打撃の状況と対比勘案すれば、原告清水徹、同早川正賢の場合も含めて原告等に三(二)、(三)のような危害を加えることが正当化されるほどに急迫、不正な侵害があつたとはにわかに措信し難く、これを認めるに充分な証拠もない。いわんや本節2で判断したとおり「大・研・研」に対する排除方法そのものが強制的な解散措置の実質をもつものと認められる以上はこれを適法な行為とは解し難いことを合わせ考えると、被告等の正当防衛の主張もこれを容認できるだけの的確な証拠がない。

五、加害者(警察官)の特定について

(一)  被告等は原告等に受傷の事実が認められるとしても、加害者を具体的に個別に特定しないかぎり、請求は失当であると争う。そしてこれまで認定したところによつても加害者が第五機動隊所属のしかも多くは第二中隊、第四中隊所属の警察官であることが推認されるにとどまり、個々に加害者を特定できるだけの証拠は見出されない。

(二)  しかし国家賠償法によつて国または公共団体が損害賠償責任を負うのは、公務員が、法人でいう機関にあたると使用人にあたるとを問わず、公権力を行使するにあたつて違法に他人に損害を与えた場合は、国または公共団体が直接不法行為責任を負う旨を定めたものと解するのが相当であり、民法七一五条一項但書の免責事由もこの場合には適用がないものと解される。

このように国家賠償責任が、公務員に代つて負担する代位責任を定めたものではなく、公務員の行為に起因して直接負担する自己責任を定めたものと解するときは、公務員の特定の点については、最小限、その公権力の行使にあたつた公務員が行政組織の上でいかなる地位にあり、換言すれば行政機構上のどのような部署に所属している者であるかが解明されるならば、これによつて国家賠償法上のその他の要件を満すかぎり国または公共団体の賠償責任を問うことができるものと解するのが妥当であり、たとえ同一部署に同じ地位の公務員が複数おり、そのうちの誰であるかは確定できないけれども、そのうちの一人の行為によつて損害を受けたことが確認できるならば敢えてそれ以上に加害者(公務員)を他の同僚から区別できるまで特定しなければならないものではないと解すべきであり、また必ずしも共同行為者となつている場合に限られねばならないものでもない。

(三)  被告等は国家賠償法一条二項の国または公共団体から当該公務員に対し求償する要件を定めた規定を引いて、右の見解を争うけれども、もともと公務員は職務上の義務に違反した場合は国(公共団体)に対し責任を負担すべき地位にあるものであるから、一条一項を国(公共団体)の自己責任を定めたものと解することと、二項の求償権の規定とが矛盾するわけではない。

この点を留保して、仮に被告等が考えるように国家賠償法が代位責任を認めたものとしても、求償権を行使できるか否かを基準に国家賠償責任の存否を判断しようとする考えは本末転倒であり、国または公共団体と公務員との関係は公法人の内部関係にすぎず、これが第三者に対する国または公共団体の損害賠償責任を左右する理由はない。そもそも国家賠償法が制定された所以は、明治憲法の下では公権力作用に起因する私人の損害に対し国または公共団体がどこまで責任を負うか、明文がなく、私人の救済がとかくなおざりにされる傾向があつたところ現行憲法一七条によつて権力的作用によつて損害を与えた場合に国または公共団体は損害賠償の責に任ずべき旨が明確にされ、これを受けて制定されたものである。このような国家賠償法制定の経過に鑑みれば、同法による被害者の正当な権利の救済の途はできるかぎり保障されなければならないことは言うまでもないところであり、訴訟における立証責任の分配が衡平の理念に導かれなければならないものであることを合わせ考えるときは、徒に被害者に立証の難きを強いることは、国家賠償法の精神に忠実な解釈ではない。そもそも国家賠償法一条の制定の動機は公権力の行使が一歩誤まてば、私人の権利を侵害する可能性が極めて大きいことに鑑み権力作用によつて違法に権利を侵害された者に適正な救済の途を開こうとする憲法の要請に由来するものであつて、いわば権力作用に内在する危険がその制定の動機とも解されるのであるが、とくに本件に即して考えると、警察官の集団的な権力の行使が法によつて許容された範囲を逸脱し、違法性を帯びるに至つたものと認められる場合であつて、しかもその警察官の集団の構成と所属(指揮命令系統をも含む)について疑義をさしはさむ余地もないほど明にされ、かつこれら警察官の集団による職務の執行によつて違法に損害を受けた事実が証明されたにもかかわらず、個別かつ具体的に加害者である警察官を特定できないかぎり国または公共団体の賠償責任を問い得ないとすることは被害者に不可能な立証を強いるに近いものがあり、不当に被害者救済への途を閉ざすものであつてとうてい国家賠償法制定の理念にそうものではない。

このように考えられるので、原告等の蒙つた傷害が警視庁第五機動隊所属の警察官の違法な職務活動(排除活動)によつて生じたことが明らかにされた本件では、第五機動隊員の行動が民法七一九条一項後段の共同行為を組成しているか否かを論じるまでもなく、国家賠償法一条に規定する当該要件事実の立証は充分になされたものと認めるのが相当である。

(四)  のみならず民法七一九条一項後段の規定は本件のような事例にも拡張して適用があるものと解するのが相当である。

同条の規定も本来は個人主義的ないし個人単位的な思想を根底に有するものであつて、本件のような集団対集団の衝突によつて生じる個々の損害に対処して制定されたとは解し難いことは被告等の指摘するとおりであるけれども、本件の加害者集団である第五機動隊は偶発的な集団ではなく、成立の当初から本件で認められるように警察権の行使として第三者を実力で排除することも想定され、そのための訓練も経てきていることは公知の事実であり、加害者集団といつても巷間に見られる偶発的な乱闘現象とは異り、隔絶した強固な組織をもつ統一体で、その命令の周知徹底するところは一般の共同行為に見られる共同意思の比ではない。このような集団的特性に鑑みれば警察官が命令に基づいて部隊行動として群衆もしくは集団の排除に出るときは、その対象が特定の個人である場合はもとより(実際には特定の個人を対象とすることは殆どないであろう)、それが一定の集団もしくは群衆であつたとしても個々の被害者との関係で民法七一九条一項後段の適用があるものと解すべく、その場合必ずしも被害者に対して具体的に加害行為を共同したことを要しないものと解するのが相当である。

このとおり解せられるから被告等の主張する加害者不特定という問題は、本件の場合には原告等の請求を妨げる事由となり得ないものである。

そこで次に被告等の責任の存否を判断する。

六、被告等の責任

(一)  被告東京都の責任

1 すでに認定した四(二)2ないし4(三)1ないし3を総合すると警視庁第五機動隊長警視末松実雄は、恩給局前のデモ隊を人事院ビル方向へ排除すべき旨の命令を受けながら、これに応じた進出地点を選ばす、このデモ隊を南通用門から首相官邸方向へ排除せざるを得ない結果に立ち至つたのであるから、第五機動隊がデモ隊の排除活動を進めて行くにあたつて、排除を命ぜられたデモ隊以外の集団が行手にあるか否かをとくに綿密に注意し、そのような集団に対しては、法律、条例の上で許された範囲内でしか警察権力を行使しないように指揮監督すべき義務があり、また、これを国会正門前で違法行為を反覆していたデモ隊と誤認し誤つた排除活動に出ないように注意しなければならない職務上の義務があつたものである。そして適切な位置を選ぶか、部下に然るべき命令を与えていたならば、必ずしも「大・研・研」集団を見出すことが不可能ではなかつたわけであるから、これを怠つたことは指揮官として部隊を指揮運用するうえにおいて過失があつたものと評されてもやむを得ないものというべく、そうであれば、斯る過怠が原因となつて第五機動隊員が「大・研・研」に対し格別の指示もないままに警棒等の有形力を行使した結果、違法に損害を与えたときはこれについても指揮、運用上の過失責任を免れることはできないものといわざるを得ない。

2 そして第五機動隊員が(それも主として第二中隊、第四中隊が中心となつて)原告等に加えた警棒等の行使による危害は警察官職務執行法七条で適法とされる限界を逸脱したものであり、これについて被告等が主張するような正当職務行為ないし正当防衛の範囲内にとどまる程度のものでないことはすでに判断したとおりであるから、免責事由の存在は認められない。(もつとも、二(三)7ないし9で認定したように第三機動隊が国会構内から出動し首相官邸前を左折して特許庁附近まで下る経過で、デモ隊と考えていた者からある程度の抵抗を受け、時にはプラカード類を振りかざして反撃してくるのを防ぐため警棒でこれを払わなければならなかつた場合もあつたことは否定できないところであり、そのような場合に、警棒等をこのような方法で使用することはまさに正当防衛であつて、その間にこのように積極的に反撃してくる相手方の腕、手掌などに若干の傷害を与えたとしても、これを強ち違法とするわけにはいかないけれども、単にスクラムを組んで居すわる態度を示し、あるいは罵声を投げかけるというような程度の抵抗に対して警棒、土足等で殴打、足蹴にすることは、四(一)で説示した限界を逸脱した過剰な所為であつて、たとえ第五機動隊の多くの隊員が深夜の群衆排除の混乱のさ中で、原告等を恩給局から正門前に集結し放火、投石を恣にしていた過激な集団と誤認したのも余儀ない事情があつたことを考慮に入れても、原告等に対する前示認定のような加害行為が適法視される理由を見出すことができない。

3 以上のとおり、原告等に対する傷害については、末松第五機動隊長の部隊指揮運用上の過失と第五機動隊員の警棒、手拳等による殴打、土足での足蹴等が警察官職務執行法七条に定める限度を故意または過失によつて逸脱した行為とが競合するものと認められるところ、第五機動隊長をはじめとする同機動隊の隊員が被告東京都の公務員であることは当事者間に争いがない。そうすると被告東京都には国家賠償法一条の規定に従い原告等の蒙つた損害を賠償すべき義務があることは明らかである。

(二)  被告国の責任

1 警視総監小倉謙、警備総本部長警視長玉村四一、方面警備本部長警視長藤沢三郎がいずれも被告国の公務員であり、それぞれ後者を指揮監督すべき立場にあり、第五機動隊がさらにその部下として指揮監督を受けるべき立場にあつたこと、国の公務員たる右三名にはいずれも各自の地位に応じて六月一五日から一六日にかけて国会周辺の警備指揮、監督を行うにあたり、警察権力を違法に行使して国民の基本的人権を侵害することがないよう適切な指揮監督をなすべき職務上の義務があつたことは当事者間に争いがないところである。

原告等は右の義務と指揮監督関係に基づき、小倉謙、玉村四一、藤沢三郎の三名には、

(イ) 原告等を含む「大・研・研」集団を適法に排除できる法律上の根拠がないのを知りまたは知り得たのに、共謀のうえ藤沢三郎をして敢えて排除命令を発せしめ、第五機動隊をしてこれを遂行させたこと、

(ロ) 右命令を発するに際しては、各機動隊長に対し、排除行為が違法にわたらないように部下を掌握し警棒の使用などについてとくに警告を発する等の適切な措置を講じることを予め指示すべき職務上の義務があるにもかかわらずこれを怠つたこと、

にそれぞれ故意、過失があると主張する。

2 しかし、原告等の主張する右(イ)の点は、すでに四(二)2、(三)で認定したとおり、藤沢三郎が第五機動隊長に与えた命令が恩給局前のデモ隊を人事院ビル方向へ排除せよとの内容であつたことに照らせば、小倉、玉村、藤沢の三名が共謀して衆議院車庫前路上にある「大・研・研」集団の排除を図つたという事実はとうてい認めるべくもないから、理由がないことは明らかである。

もつとも四(三)3で判断したとおり第五機動隊が命令とは違つた方向へ排除して行かざるを得ない可能性も絶無とはいえないけれども、そうだからといつて藤沢三郎の下した命令が実行不可能な事情にあつたとしても認められない本件では、現実には命令と相違した方向に排除活動が進められ、「大・研・研」がその対象になつたからといつてその命令を発したことに故意過失を認め得ないことは、すでに説示したところである。

3 原告等の主張する(ロ)の点も、すでに判断したように「大・研・研」集団がいた周辺と国会正門前とでは非常に事態に差異があるところ、もし藤沢三郎の命令どおり排除が進められていたならば排除の対象は後者にあつたデモ隊に限られる筈であつたのであるから、命令を発した者としては、たとえその他の場所にこれとは異る集団、群衆があることを予見できたとしても、そのような集団、群衆のいる方向に排除を進めて行く場合に必要な注意まで各機動隊長に一々与えなければならないものではない。

もつとも排除の対象がどのような集団であるにしても警棒等の行使に行き過ぎがないよう適切な指示を与え、相応の措置を講ずべきことは言うまでもないところである。しかし、この点についても二(二)7、8、(三)3、4、(五)1、2でそれぞれ認定したように、警視総監、警備総本部長玉村四一はどちらかと言えば逸り立つ現場の意見に対し、慎重な態度で臨み、とくに警棒の使用については懸念を示し、部隊として使用を命令するようなことは極力避けるように指示までしていること、このような両名の意向は、藤沢方面警備本部長から一々伝えるまでもなく方面警備本部に詰めていた各機動隊長その他の幕僚、幹部にも充分了解できたこと、その結果第五機動隊の場合にも部隊として警棒の使用を命じたことはなかつたこと、また二(一)2で認定したように事前の警備会議でも警棒の安易な行使を極力いましめていることがそれぞれ肯定されるのであるから、首脳部においてこのように慎重に配慮しているうえからは、その意図を体していかに排除命令の遂行の過程でこれを生かすかは各個の部隊の指揮官の裁量に委ねられるべきことがらであり、その具体的な適用方法まで警視総監、警備総本部長、方面警備本部長が指示しなければならない性質のものではないと解するのが妥当である。したがつて原告等の(ロ)の主張も失当であり、他に第五機動隊の所為について、小倉謙、玉村四一、藤沢三郎の三名に警備指揮監督上の故意、過失があつて原告等に傷害を負わしめたと認むべき的確な証拠はないから、原告等の被告国に対する請求は理由がないことに帰する。

七、慰藉料の算定

(一)  原告清水徹、同早川正賢について

1 前記三(二)1、2で認定したように右原告両名はいずれも恩給局前から衆議院第二議員会館前にかけての路上において傷害を受けたものであつて、現場はその地理的条件からみて当夜国会正門前デモ隊と総括された全学連傘下と覚しい学生を主体とする集団の一部が滞留しているものと認められても不自然ではない場所であり、そのデモ隊の一員と誤認される危険性の極めて高い地点であつたこと、とくに原告早川の場合は着衣その他でも容易にこれと区別できる状態でなかつたこと、第五機動隊とくに第二中隊に対する投石その他のデモ隊の反撃行為も他の地点と比較してかなり激しかつたこと(二(三)7参照)、しかし原告清水徹の場合は道路脇の第二議院員会館北門に避難していたのに暴行を加えられたこと、これに反して原告早川は道路を逃走中であつたこと、そのほか両原告の被害の程度、職業等の事実(三(二)1、2、一(二)5、6参照)を考慮して慰藉料は原告清水徹については金一〇万円、原告早川正賢については金三万円をもつて相当と認める。

(二)  その他の原告等の慰藉料の算定およびこれについて斟酌すべき事情

1 原告大須賀きくは三(三)12(8)のとおり特許庁へ下る坂の途中で受傷したものであるが、その余の原告等はいずれも衆議院車庫連絡事務所前あたりから首相官邸前十字路を左折し特許庁へ下りかかるあたりまでの道路上で受傷したものである。(三(三)2ないし14参照)

2 ところで「大・研・研」が滞留していた当時の情勢は前記一(一)、6、(2)で明らかなように、「大・研・研」の院内交渉団としては「大・研・研」を衆議院車庫前道路上にとどめたままにしておくことに不安がなかつたわけではなく、とくに時刻が深更に及び夕刻来の雨で集会者にもかなりの疲労が出てきているところに警察官と国会正門前の学生デモ隊との間の緊張した対立が続き、警察官側も冷静さを失つている気配が感じられたので、もしそこに衝突が勃発するときは「大・研・研」のいる場所にまで危険が及ぶことも考えられ、事態の進展は予断を許さず、なにがしかの不安も萠すような情勢であつたこと、そこで社会党議員の斡旋で「大・研・研」を議員面会所の建物内に退避させることの許可を得、まさにそこへ誘導しようとしたその時に、第五機動隊による排除に遭つたものであることが肯定される。そして二(二)1ないし9で認定したように、一五日夕刻から深夜にかけて国会構内と周辺(とくに南通用門附近と正門前)では繰り返し学生と警察官との間に衝突が起り死者まで出し、異常な雰囲気に包まれていたのであるから(それだからこそ「大・研・研」もそれまでの行動方針を変更し、夜を徹しても待機し、事態の成り行きを注目することになつたわけであるが)さらに学生と警察官との間に衝突が起ることも予想されないではなく、そうなつた場合には衝突によつて生じる混乱が「大・研・研」のいる場所にまで波及する可能性も少くないものと考えるべきであり、このような情勢下にあえて統一ある集団として滞留し独自の活動を続けようとするかぎりは少くとも混乱の渦中に巻き込まれた場合に数百名に及ぶ集会者の安全をできるだけ確保するように積極的な措置を講じておくべきであり、これらの点で「大・研・研」の指揮統制の任にあつた者の配慮が行き届かず、あるいは時機を失したことが本件のような被害を誘つた一つの原因となつたものと認めて妨げない。(「大・研・研」の指揮統制の機構に不十分なところがあつたことは原告山口啓二も感じていたところで、そのことは甲第九号証の同原告の執筆部分および同原告尋問の結果によつて明らかであり、また「大・研・研」が当初の行動方針を変更し徹夜で待機することになつたことから、集団としての標識、照明の整備、情勢把握のための機構等の点で準備に不十分な面が出てきたことは容易に推測される。)

3 もつとも原告等は「大・研・研」集団は一見して容易に識別できるような状況にあつたと主張するけれども、数百名に及ぶ恩給局前のデモ隊が排除され、追われるような形で逃げはじめた混乱状態が間をおいて波及してきた時に、「大・研・研」の存在についてなんら予備知識がなく、また恩給局前のデモ隊とその他の集団ないし群衆を強いて識別しようと努めない者が、それほど容易に「大・研・研」たる集団があることを識別できたかどうかは疑わしく、本件全証拠を検討しても、四(三)2、3で認定した程度以上には識別の可能性を期待できないものと認めざるを得ない。 このように判断されるので、「大・研・研」の一員として右2のような危険が予想される状況下に危険回避のための準備ないし措置も十分でないまま敢えて滞留していたことは原告等の被害の発生を誘つた一の過失として損害額の算定につき斟酌すべきものと解するのが妥当である。

4 このほか被告等は

(イ) 「大・研・研」が集会の届出すら出していない

(ロ) 「大・研・研」の前方すなわち南通用門あたりで警察官といわゆるデモ隊との間に衝突が起つているのを目撃しながらも退避せず、かえつてスクラムを組んだ

(ハ) 再三、再四の解散の警告にも応じなかつた

と主張し、これらが原告等の被害を誘い、増大させた原因であると言うけれども、

(1) 無届、無許可集会であるからといつて無条件に解散を強制できるものと解すべきでないことは、四で判断したとおりであり、仮に集会の届出があつたとしても、第五機動隊が命じられた排除は恩給局前から人事院ビル方向へ進めて行く筈のものであつたことに鑑みれば、藤沢三郎が排除方法を検討し、末松第五機動隊長にこのような命令を発するにあたつて、排除を予定していなかつた衆議院車庫前の「大・研・研」の存在が特に注意を惹くようなことはなかつたものと考えられるし、同機動隊長も最初から「大・研・研」のいる方向へ排除しようと意図したものでないとすれば、部隊に出動を命じた時に「大・研・研」の存在について格別の指示を与えるわけもない。のみならず、すでに判断したように正門前以外にもかなりの群衆、集団があるであろうことは、警備担当者の方でも予見できたところとみるべきであるから、結局本件の場合には、届出を欠いてはいるけれどもそれがとくに原告等の被害の発生を誘発しまたは増大させる原因となつたものと結論できるだけの因果関係の存在を肯定できない。

(2) また被告等が(ロ)として主張するような事実を認めるだけの信用のおける証拠はない。かえつて三(三)1の各事実に明らかなように原告等を含む「大・研・研」の参加者の多くは、はじめ事態の真相をつかむことができず、右翼暴力団の来襲という流言に惑わされスクラムを組みかかつた向きが多かつたことからみても、被告等の主張する(ロ)のような事実の認識があつたことは考えられない。

(3) また被告等が(ハ)で主張するように「大・研・研」に対し解散の警告が再三繰り返された事実を認めるに足る証拠はない。もつとも二(三)8ロのとおり、第四中隊長が解散を命じた事実は認めることができるけれども、強制的な排除に移るに先立つて解散に必要な時間の余裕を与えたことは認められないから、このような解散の警告では、警告として無意味に近く、とうてい実効性を期待できないものである。(警告であるからには、これに従う意思のある者が適切に退避できるだけの時間の余裕が与えられなければならない。)

5 以上のように判断されるから、原告等((一)の両原告を除く)の慰藉料を算定するにあたつては、右2、3で認定した事情を原告等の過失として斟酌するのが妥当であるが、六(一)で判断したように第五機動隊員が警棒等によつて原告等に与えた傷害は、その受傷の状況に照らすと職務行為ないし正当防衛というには著しく行き過ぎたものがあり、前示のような原告等の過失を斟酌するとしても、原告等の蒙つた苦痛を慰藉するためになお相当の金銭をもつて償われなければならないものと判断される。

そこで右2、3の事実と原告等個々の受傷の部位、性状、程度、後遺症(これらについては三(三)1ないし14の認定事実による)と原告等の地位職業(これらについては一(二)1ないし4、および7の各事実による)を総合して考えるときは、原告山口啓二については金三万円、原告清水義汎については金一〇万円、原告福井正雄については金一五万円、原告山崎昂一については金七万円、原告浜本武雄については金七万円、原告森章については金七万円、原告新井浩については金七万円、原告石崎可秀については金一〇万円、原告山口省太郎については金五万円、原告今西章については金七万円、原告池端切については金二万円、原告渡辺宏一については金七万円、原告凉野元については金七万円、原告幼方直吉については金一〇万円、原告尾崎庄太郎については金一五万円、原告野原四郎については金五万円、原告野村昭夫については金二〇万円、原告山辺健太郎については金二〇万円、原告大須賀きくについては金一五万円、原告高橋信一郎については金五万円、原告名和利也については金二〇万円、原告湯川和夫については金二〇万円が相当とそれぞれ認める。

第三、結論

以上のとおり判断されるので原告等の本訴請求のうち被告東京都に対する部分は右七の金額とこれに対する不法行為の翌日である昭和三五年六月一七日から完済まで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の限度で理由があるものとして認容すべく、その余の部分ならびに被告国に対する請求は失当であるからいずれも棄却することとする。

よつて訴訟費用参加費用につき民事訴訟法第九二条ないし九四条を、仮執行宣言につき同法一九六条を各適用し主文のとおり判決する。(裁判長裁判官石田哲一 裁判官滝田薫 山本和敏)

当事者目録

原告福井正雄(ほか二三名)

被告国

右代表者法務大臣賀屋興宣

被告東京都

右代表者知事東龍太郎

被告東京都補助参加人末松実雄

訴訟代理人目録

被告等訴訟代理人弁護士

海野普吉(ほか一五名)

被告国指定代理人宇佐美初男(ほか一名)

被告都指定代理人空田義夫(ほか四名)

補助参加人代理人弁護士

山下卯吉(ほか四名)

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